ご無沙汰更新
さて、ものすごく久しぶりです。最後に更新してから気が付いたらなんと約8ヵ月以上も経っていました。最近になりやっと少しだけ今の日常についてや、日々思うこと、色々な出来事をまた記してみようかなという気持ちにもあったので、久しぶりに更新することにしました。
前回の更新から、協力隊の任期を終え、日本に帰国してから、になりますが、この間は色々なことがあったし、ものすごく色々なことを考えました。もちろん帰国してこれからどんな風に過ごしていくか、というところで私自身も環境の変化は大きくありましたし、私が住んでいたエクアドルでは、2019年10月から約1ヵ月ほど大統領政権に対するストライキが暴動化して、政治的混乱から非常事態宣言が出されていた期間もありました。そして、何と言っても現在は世界中がコロナウィルスにより、大変な状況になり、それぞれの生活は一変しました。
私自身は正直なところ初めはこれほどまでに大きく世界へ広がり、今のように世界がここまで危機的な状況になるとは思っていませんでした。たった数か月、数週間で世界の人々の生活や日常、経済はこんなにも変わってしまうのかと改めて驚いています。
JICAの海外協力隊は現在世界中の全隊員が日本に一時退避中です。特にアフリカや中南米の国々が2月末から3月頃にかけて国境封鎖や空路の出入りを一気に禁止する動きを見せてから、皆が一時帰国になってしまうまでの時間は本当に一瞬で、任地の同僚や友人に直接会えないまま帰国になっている隊員も多いです。現在の状況からはまたすぐにみんなが任国に戻ることができる日がくるのは難しい状況なのかなと推察します。そして同時に私がいたエクアドルもまたコロナウィルスで非常に悲惨な状況になっていると聞きます。
初めて感染者が確認されたグアヤキル(国際空港がある、実質的な経済の中心地でもあり、治安もとても悪い)をはじめとして、その周辺地域などのコスタ地方と呼ばれる沿岸部に近い県の感染者数はおそらくエクアドルの全感染者数の大部分を占めているのではないかと思われます。日本では、昨日の時点で1億2000人の人口に対して約1万2000人の感染者が確認されていると報道されているのに対し、エクアドルでは、約1700万人の人口に対して2万2000人以上の感染者の報告が報道されています。もちろん致死率も高く、死者330人ほどの日本と比べると、エクアドルでは上の人口に対して550名以上にのぼっています。しかも3月下旬から一日に報告される感染者数は膨大に増えはじめました。南米大陸でブラジルに次いで二番目に感染者数が多いとされています。もちろんブラジルに比べ面積も人口も規模が異なるのにこの数字は異常な気がします。
私が住んでいて、首都は思った以上に発展しているし、最低限のインフラも整備されているのは感じました。首都や都市の生活は一見豊かで現代風な生活もあるところにはあって、他のアジアやアフリカの国の様子の話と比べても発展しているように感じていました。とはいえ、先進国でもなく、もちろん地方との格差もあり、その地方での貧しい質素な暮らしを私は任期中に見たり、少なからず経験できたとも思っています。そして何より冒頭に書いたように政治不安による暴動化やストライキが非常事態宣言にまで繋がってしまったように、政治体制もまだまだ不安定で、同時に経済や医療も非常に脆弱であることも強く感じます。
現在は日本でさえ医療崩壊(危機)の報道がされる中、エクアドルのような国で爆発的な感染が起こったらどれほど悲惨な状態になるのか。もちろん病院は満床で、遺体を処理することもできないようです。感染者の遺体も街中に放置され、、街の衛生状態が悪くなり、良くない連鎖が起こります。また日本は挨拶のときにもともと握手をしたり、ハグをする文化はないですが、何よりもそれらを大切にする彼らの文化や、日本人に比べて愛着心が強いので人々との距離が近く、このような習慣の中で感染が広まってしまったという背景もあるのかなとも思います。これは日本に比べてアメリカをはじめとして欧米圏のほうが拡大が早かったことの数ある原因の中でひとつである気もしています。もちろん今はエクアドルでも握手はしないで、とか、いわゆる三密を避けマスクをするなどの啓発は出ています。ちなみに私がいた任地ヤンササがある県は海沿いから離れていたり、首都からも遠い奥地だからか、初期のころから検問や消毒などをすごくがんばっており、いまのところ感染者数は多くはありません。徐々に増加はしているので心配ですが。また中南米では決められた時間(昼間)以外に外に出歩く、マスク無での外出は逮捕されたり、罰金刑になったりと、刑事罰が科せられることもある状況になっていたりもするようで、こういう点は強制力がハンパないです。
スペイン語で自分の生まれた国のこと、ふるさとを思う気持ちを歌う「Yo nací en este país」というとても素敵な歌があります。意味は「私はこの国で生まれた」という意味で、音楽もきれいで初めて聴いた時から私は大好きになりました。ふるさとや家族やその国の愛おしい風景などを思い出して歌う暖かい気持ちが自然と伝わってくる曲です。隊員時代も事あるごとにみんなで演奏していたこの曲で、とても悲惨な日常と戦うエクアドルの人たちに少しでも思いを届けようと、エクアドル隊員仲間とこれを歌い、オンライン上でひとりひとり歌ったフレーズを繋げることにしました。(動画は別途公開していますので気になる方はご連絡ください)
遠く離れた日本から少しでもエクアドルの皆のことを想っている気持ち、一緒に頑張ろうという思いが伝わればいいなと、思います。
「前に進もう、また一緒に居られるように」という意味。
とはいえ、私の母国である日本ももちろん大変な危機的状況にあり、毎日いろいろな問題が取り上げられています。深刻な状態です。有名な方が亡くなられたり、身近に濃厚接触者特定されるケースも聞いたりと、他人事ではなく、働く環境も日々変化します。周りの人を守れるように、しっかり考えて行動していかないといけません。
私にできることをして、一日でも早く以前のような日常が戻ることを願います。
皆さんもお気をつけてください。
4月あたまの桜。
ひさしぶりのJapón
さて、だいぶ間があいてしまいましたが、無事に7月5日に日本に到着し、今は日本の生活をゆっくり楽しんでいます。エクアドル出国から日本到着までと、その後についてを忘れないように書いておこうと思います。
(このブログは閉鎖はせずに何かのタイミングで更新できるようには取っておこうと思っています。)
キトで行っておきたかった場所のひとつ、ロープウェイ(Teleferico)からの市街の眺め。これがエクアドルの首都です。このまっすぐ向こうはシエラ地域、山の地域。左側にずーっと進むとアマゾン地域、右側の方向に山を越えていくと最終的にはコスタという海沿いの暑い地域へ。
出発直前、キトではエクアドル外務省と日本大使館への表敬を最後に、すべての公務を終えました。
表敬直前。なぜかスイスの国旗もあった。
JICAエクアドル事務所の現地人スタッフ。彼がフアンカルロス。彼の人間性には最後まで救われていたし、とても楽しい素敵な人柄だったな~。環境分野の専門ということもあり、事務所内では日本人よりエコに厳しい誇り高き人物。お世話になりました。ありがとう!
最後に少し景色がいいレストランでごはん。
最終日は買い残したおみやげを買いに行き、ギリギリまで荷造り、そして出発時間に合わせて集まってくれた後輩隊員たちとごはんを食べて無事に連絡所でさよならをして、空港へ。
最後に隊員連絡所の前で。素晴らしい隊員仲間でした。みんなのこと尊敬してます。大好き。
連絡所の警備をしてくれていたコネホさんと。彼もまたとても親切で毎回長旅をしてキトまで出てきた私にとって彼との挨拶は安堵そのものでした。
キトの空港で搭乗直前。
予定していたフライトは1時間ほど遅れましたが無事に7月4日になってすぐの1時頃に搭乗が始まり、アメリカのヒューストンを経由して成田空港に7月5日の15時頃に到着しました。到着してすぐは一緒に帰ってきた同期と成田空港でラーメンを。この瞬間を何回夢見たことか。
成田到着~!!長旅で疲れているけど心なしかみんな安堵の表情。私達エクアドル隊員は先に帰国を迎えた先生たち5人がいますが、でも今回残りのメンバー全員4人でしっかりと無事に日本の地を踏めたことはありがたい限りです。
エクアドルでお世話になった人々、成長させてくれた人、ものすべてに感謝します。
2年間ありがとうございました。
お世話になった公用旅券と帰国便チケット。
帰国後はたまたま帰国日が近かったネパール組とJICAで研修、帰国時健康診断を受け、それぞれ解散となりました。
エクアドルでお世話になった方々と日本で無事の再会。時差ボケでぼーっとしていた時期。
私は一時帰国していたし、日本にすぐ馴染むだろうと思っていましたが、良い意味でも悪い意味でもやはり違和感を感じることもとても多かったです。これが逆カルチャーショックなのか、よくはわかりませんが、書いておきます。
・ごはんは何を食べてもおいしい。どんなレストランに入っても全部おいしい、日本のお米はおいしすぎる。
・どこも店員さん、サービス業に従事する人のサービス精神もすごい。
・公衆トイレが無料。すばらしい。しかもきれい。(エクアドルは1回15円くらいかかります。もちろん日本のような清潔なトイレではありません。)
・トイレットペーパーが流せる奇跡。
・街が静か。(これは意外でした。なんだかんだエクアドルではどこも音楽がかかって、車の騒音やクラクション、人の話し声も大きいので、そういう街がガヤガヤしていることに慣れていた、ということなのかもしれません。)
・電車の車内アナウンスで、遅延していることを謝る。(遅延している表示が出ることにも驚きですが、遅延していることを謝罪する、ということに驚いてしまいました。正直毎日遅延するくらいきつきつの時刻ダイヤは本当に必要なのか、とも感じます。もちろん便利なのはすばらしいことですが、数時間おきのバス移動に慣れた私には10分置きでも便利すぎるくらい便利です。でもこれもそのうちなんとも感じなくなってしまうのでしょうか。)
・みんな肌が白い。
・外国人の方が驚くほど増えた印象。(店員さん、タクシーの運転手さん、働く人が増えているかんじ。驚き。しかも外国で外国語である日本語を使って接客業なんてすごすぎる。)
・車が止まってくれる。(エクアドルでは絶対止まりません。轢かれるだけ。ブラジルでは止まってくれるため、任国外旅行で訪れたエクアドル隊員たちはみんな驚いていました。)
・人が多い。
・人と歩くときの方向に慣れない。(日本は自然と左側通行になることが多いと思いますが、エクアドルでは逆だったので、私はこの流れがなかなか慣れず、エクアドルでやっと慣れてきたと思ったら、今度は日本で馴染まなくなってしまった。)
・日本は「他人」との線引きが本当にハッキリしている。(エクアドルでは隣に座ったらすぐ話すし、すぐ「アミーゴ、アミーゴ(友達)」と人のことを呼ぶ。距離が近いなと思うこともあるけど、やはり隣に座った人とか近くなった人とすぐ仲良くなれるのはとても素敵なことだと思うし、楽しいです。まぁそうやってすぐ人といろいろ話して距離を縮めるので簡単には人を信頼できないという点もあるのですが、そこの人との距離感は日本とは正反対だと思います。)
・この前母とお出かけをして、母が落としたブレスレットが、その後なんと遺失物センターに届けられ、戻ってきました。日本ってすごい。
まぁこんなところでしょうか。また何かに気づいて、記録しておきたいことだったら書いていきます。
そんなこんなで今年の夏は少しゆっくりして、協力隊の同期や、会いたい人と会い、今後に向けて模索します。何事も後悔しないように。
大好きなエクアド仲間。無事の帰国を待ってるよ。
ではまた~。
任地とさよなら
あっという間に時間は過ぎて、気が付くともう6月末。今私はこの記事をキトのボランティア隊員連絡所で書いています。6月14日に無事にキトにあるJICA事務所で最終報告をし、再度任地に戻りました。そして、昨日6月27日、任地を引き上げて、キトにあがってきました。ヤンササで働くJICAボランティアとして任地に戻ることはもうありません。ステイ先の家族、友人、市役所の同僚や知り合い、お世話になった人たち、私を慕ってくれた子どもたちともしっかりお別れをしてきました。
活動面では6月19日に配属先の市役所で最終報告を行いました。報告会には市役所の人だけではなく、ステイ先のお父さんお母さんも来てくれました。
ちなみにこの日の朝は、お姉ちゃん2人が私にエクアドル人風の濃いめのお化粧をしてくれました(それでも薄めにしてくれと頼んだけど)。
カウンターパートのオルランド、ステイ先のお父さんお母さん、JICAスタッフのフアンカルロスと。
JICA側からはエクアドルのナショナルスタッフとして2年間私をサポートしてくれたフアンカルロスが来てくれ、最後にはコメントもしてくれました。彼には最初から、途中の人間関係がうまくいかなかったときも、そして環境部会でも、最後までお世話になりました。
市役所の環境課で以前働いていて、今は市の警察の管理をしている同僚・ハイロ。弁護士さん。
いつも私に親切に挨拶してくれ、報告会にも来てくれました。
報告会後に部署でオルランドと同僚のディエゴと。
そして任地での最後のお仕事となったボランティアグループとの街の清掃活動にも参加。
連続して2回目の参加のちびっ子・マヌエルと同僚のディエゴ!
ここまでエクアドルで過ごしてくることができたのは任地で私をサポートしてくれた人たちのおかげです。
約1年2か月、継続して訪問していた学校。接していた時間の長さからか、この学校の子どもたち、先生たちとは本当に距離を縮めることができました。
「El día de la familia(家族の日)」に合わせて学校で行われたイベントにも参加。
踊りや劇を頑張っていました。
学校の子どもたちへの餞別。日本語で書いたそれぞれの名前のプレートと折り鶴のキーホルダーを作りました。一人一人にあると発表するとみんなの顔がぱぁーっと明るくなりとても喜んでくれました。
この学校の校長先生。市役所の報告会にも来てくれて、みんなの前でコメントもしてくれました。
何より、ステイ先の家族には感謝の言葉を伝えても表しきれないほどの気持ちで一杯です。
最後の日曜日はみんな集まってくれました。私はロールキャベツとカレーとポテトサラダ、鶏肉の照り焼きを振る舞った。
私は甥っ子のDavidと一曲歌を歌い、他にも歌を歌ったりギターを弾く孫たちがその後も少し歌を披露。
この写真のみんなはステイ先のお父さんお母さんの孫たち。私の甥っ子たちにあたりますが、この写真の一番左の少年はKevinと言って、知的障がいがあります。ふだんはロハにある彼のお母さんの家に住んでいますが、ここヤンササで過ごすのが大のお気に入りで最近はほとんど私が住む家で、ここの家族と過ごしていました。彼に対しても、いつも暖かい雰囲気でステイ先の家族みんなが気に掛け、声を掛け、彼にちょっかいを出し、Kevinもそれがお気に入りでヤンササが大好き。私も家族に混じって、彼にちょっかいを出したり、Kevinも私のことをちゃんと認識してくれて、私が市役所から帰ってくると少しご機嫌になっていたり、今朝はヤンササからビデオ電話を掛けて来てくれたりもしました。彼を暖かくみんなで見守るステイ先の雰囲気も私は大好きでした。
最終報告会の日に私にお化粧をしてくれたお姉ちゃんたち。私の左がPatricia、右がcuma。
Patriciaの家族と。
最後のチョコラテ挽き。
ここでもKevinはみんなに混じってお手伝い。
2年間彼らの家族の一員として過ごすことができて幸せでした。そしてこれからもこのふわっとした居心地のいい関係性は距離が離れても続いていくような、そんなかんじな気がします。
また、最後の6か月を同じ部署で過ごしたパオラとディエゴ、このふたりにも沢山助けてもらいました。彼らのあたたかさもとても居心地がよかったです。パオラもディエゴも日本語で挨拶してくれたり、特にディエゴとは活動で外出する機会も多く、いろいろな話もしたし、たくさんのことを教えてもらったし、他にもいくつか日本語を覚えてくれたし、なかなか信頼できるエクアドル人に巡り合うことは難しい中、半年という短い時間の中でも彼の人間性には信頼を置くことができました。彼と一緒に働くことができてこれもまた幸せでした。
また、最終的なカウンターパート、オルランドとは不思議な時間の過ごし方をした気がしますが、最初の3か月と最後の6か月、やはり彼と働くことで私が考えていることなどを素直に伝えられることもできたし、またそれを彼はちゃんと聞いてくれて、少し考えがぶつかったこともありましたが、それもまた良い思い出です。何より外国人の私に親切に丁寧に接し続けてくれて、気にかけてくれていました。
あとは、私が任地を出る3日前に舞い込んだ、悲しいお知らせもありました。以前一緒に部署で働いていた元同僚が亡くなったというニュースでした。
以前ブログでも紹介したことがある「マルセロ」という人物。私が任地に着任したときから同じ部署で働く同僚として1年間ほど一緒に時間を過ごしました。彼はごみ収集車のうしろで各家庭からのごみを収集車に回収していく仕事を担当していました。暑い日も雨の日も走り抜けなければいけない大変な仕事。私はそんな仕事を担当する彼らのことを尊敬していたし、彼らもまた外国人の私に優しく接してくれていました。その中でもマルセロはとても親切で、彼の乗るごみ収集車に乗らせてもらうことが多かったので仲良くしてもらって、彼もまた私との話を楽しんでくれていたように見えました。任地でのお祭りに一緒に行ったこともあったなぁ。彼は唯一私にスペイン語ネーム(彼が付けたのは「ミランダ」)と付けてきた人物でもありました。
彼が市役所での契約を終えてからは、彼の奥さんが部署で働くことになって、この奥さん経由で今年に入ってから彼が体調を崩し、療養しなければいけない状態にあるということを私達は聞いていました。直接彼とも連絡を取ったりもしていて、原因は心臓に何らかの問題を抱えていたこととのことでした。本当は先進国で手術するのが一番いいということでしたが、もちろん経済的な問題もあり、その中でもエクアドル国内でできることするために、キトやクエンカ、ロハに行ったりして様々な検査や方法があるのを探していたように思います。
ちょうど3週間ほど前に久しぶりにメールが届き、その時はクエンカの親戚の家で療養しているとのことでしたが、そのあとはキトかグアヤキルの病院に行かなければいけないというようなことを言っていて、6月24日夜、別件で同僚のディエゴと連絡を取った時にディエゴがグアヤキルの病院でマルセロが亡くなったというお知らせを教えてくれました。エクアドルでのお葬式は3日間続きますが、なんとか私が任地を去るまでに彼の体は任地に到着し、無事に任地最終日の夕方、オルランドや同僚たちとお葬式に顔を出すこともできました。ちょうど他のイベントに顔を出したり、いろいろな人とお別れもしなければいけなかったのでバタバタする中で、少しだけ参加させてもらったかんじでしたが、奥さんが、マルセロが私のことも気にかけてくれていて、私に挨拶をしておいてと言っていたということを話してくれました。棺の扉は閉まっていましたが、私に顔を見せてくれるために開けてくれて、最後に顔を見ることもできました。彼の冥福を心から祈っています。
お葬式に顔を出してからは、私はステイ先の家族と時間を過ごすことに。
近くのお店で軽く乾杯。
Davidです。日本に恋する16歳。でも最近は彼女ができて、彼女ができたその日に私に「カノジョガデキマシタ」と日本語で報告してくれました。ふふふ。
家に帰ってからは、余っていた日本酒でみんなで乾杯。
家族が寝ても、お姉ちゃん2人と朝の5時まで飲み明かしながら、私は部屋とを行ったり来たりしてお片付けと掃除に追われていました。
私の部屋になだれ込み、お姉さん2人。そして一番上の姉Patriciaは私のベットで爆睡。
そして任地出発の朝、市役所の部署に挨拶しに行って、ギリギリ家に戻り、最終の片付けと掃除、朝ごはんをかき込むように食べ、みんなと写真を撮って、バスターミナルへ。
お父さんとお母さん。お父さんのお名前はJulbio(フルビオ)、お母さんのお名前はMeche(メチェ)。仲良しの可愛らしいご夫婦です。
お兄ちゃん2人。DarwinとRene。二人も私を妹のように面倒を見てくれました。
そして泣きながらもバタバタと家を出て、ターミナルまでお姉ちゃんたちに送ってもらう中で、最後の景色かと思うとやはり涙が止まりませんでした。
ターミナルでは市役所の同僚2人、そして付いてきてくれた家族と最後まで別れを惜しみ、バスがヤンササを出る時は感慨深いものがありました。ヤンササで出会ったすべての人、ものに感謝しています。
初めて首都からヤンササに移動してきたとき、オルランドと市役所の運転手さんとロハの空港から任地に向かいました。夜も更け、山をいくつも越えて、少し大きな街に着いて、心の中で「あ、ここかな、やっと着いたか」と思うと、また通り過ぎて、小さな小さなコミュニティしか通り過ぎなくなって、外も暗く、何も見えず、どんな所に連れていかれるのだろう…と心の中は穏やかではなかったことを今でもはっきりと覚えています。着いた先は思っていたよりも大きそうな街で、夜も10時を過ぎていたのに、そのときはステイ先のお父さんお母さん、お兄ちゃん、そしてお父さんお母さんの孫にあたる4人とも、みんな起きてくれていて、サッカーの試合中継を見ているところに私が到着しました。お母さんが「疲れたでしょ」とその場で作って出してくれたフルーツジュースはお砂糖が入っていないフルーツの甘さだけのおいしいおいしいジュースで、お腹も空いていなく、飲み物も飲みたくなかった私の疲れた体に染み渡ったこともしっかり覚えています。
くじ引きのようにこの街に来ることになって、首都から一番遠い、山をいくつも超えて着いた先の小さなアマゾンの街、こんなところで2年もやっていけるのかと不安しかなかったけれど、ステイ先の家族の暖かさとおいしいごはんと、自然いっぱいの素敵なのどかな景色とよくわからないエクアドル人の陽気さに魅了されながら、たくさんあった嫌なことも含め、気が付くとあっという間に2年が過ぎていました。たくさんの人に出会い、みんなに成長させてもらいました。ありがとう、ヤンササ。またいつか再会できるといいなと思います。¡¡¡Hasta pronto!!!
仲良くしてくれた同僚たち。
最終処分場の同僚たち。
最後に部署の同僚が開いてくれた送別会。普段はこういう会に来ない同僚も参加してくれてうれしかったな~。
最後に市役所主催で開かれた音楽イベントにも参加。文化振興課の同僚たちと。
知り合いの家族と。
私の膝に寝転ぶAdrian。彼もステイ先の孫。よく一緒にお昼ごはんを食べながら遊びました。お兄ちゃんのDavidのように彼も日本語の単語を少しずつ覚えていたところ。猫、犬、クモ、クマなどを私と一緒に覚えました。彼とのお別れもまた一段さみしいものがあり、彼の成長をこれから近くで見れないのは悲しいな~。いつか大人になった彼に会えるといいなと思います。
キトからの国内便。プロペラ機なことも多く、揺れる飛行機で何度首都と往復したことか。それでもエクアドル国内の飛行機は想像よりもずっとしっかり、ちゃんとしていました。
キトのJCA事務所に貼られた隊員マップ。私はずっと南のほう。
今はキトで、数日は連絡所を起点に過ごします。来週はバタバタと銀行口座の閉設、大使館と外務省への表敬訪問、事務手続きなどを済ませ、エクアドル時間の7月3日深夜に、エクアドルからアメリカ経由で日本へ帰国します。
すぐそこの外国
さてさて、任地を出る日を決めました。6月27日に任地を出発することに。それまでは最終報告準備や任地での残った細かいこと、荷造り、みんなとのお別れをします。
そして今回は5月23日~6月1日まで、2か国目の任国外旅行に行ってきたときのことを書きます。行き先はエクアドルのすぐ下のペルー。今回、私にとってこの旅行の最大のポイントは「エクアドルからペルーに陸路で入ること」でした。エクアドル最南部に位置する私の任地からは、わざわざ国内移動をして国際便が出ているキトやグアヤキルまで行くよりは、近くの南部都市ロハからペルーに陸路で入った方が近いのです。生まれて初めての陸路での国境越えを経験すること、これが私の最大の目的でした。
やはり、実際に移動してみて、これまで国内の長距離移動に慣れてきた私には国内移動をするよりも、ペルー国境までのほうが近く、改めてペルーに近い場所に住んでいたことを実感しました。白い部分がペルー。エクアドルと比べると大きくて、広い。
ペルーまでの陸路は、任地ヤンササからいつもの通りロハへバスで3時間、そしてロハから国境を越えてペルーに入り、ペルーのピウラ(Piura)という場所まで行くバスに乗りました。ロハからピウラまでなんとたったの14ドル。任地からキトに行くまでのバスよりも全然安い。ロハからエクアドル側のペルー国境(マカラ)までが5時間半、思っていたよりも早く国境沿いに到着し、心の準備もあまりしないまま、そこでエクアドルの出国審査所を通りました。
待っている間はやはり少しドキドキ、止められたらどうしよう…とか考えながらも無事通過。そして国境の橋を渡ると、そこからはもうペルー、今度はペルー側の入国審査所を通り、晴れてペルー入国です。
ここはもうペルー。
同じバスにはエクアドル人夫婦が旅行目的で、そしてペルー人のおばさまがひとり。ペルー人のおばさまはよく行き来している感が満載で、贈り物であろう鶏を持っていたりしたので、おそらく家族がエクアドルの国境沿いあたりにいるのかなと少しお話しして聞いてみたらやはりそうでした。バスの中はかなり少人数だったので、ペルー入国後は近くに座ってみんなと少しだけお喋り。そしてそこからペルー国内をピウラまで4時間ほど走り、到着。
ピウラの空港からペルーの首都リマ、そして最初の目的地であるフリアカという所まで国内線で移動しました。
大きな街、エクアドルとはまた全く異なる景色に感動。
そして着いた先はプーノ(Puno)という街。とってもきれいな街でした。中央公園もとても素敵。
この街に来た目的は「チチカカ湖」の観光。
チチカカ湖にはいくつかの島があって、中でも有名なのは浮草で作った島に住むアイマラ族の生活。外国人観光客のツアーで賑わいます。
たまたまこの島出身のガイドさんにあたり、彼から子供時代の生活の様子とかいろいろ直接聞くこともできました。
そして次の島へ。ここは半島になっている地域。
水もきれい。
ここでは1晩だけのホームステイをしました。行政が観光産業として後押ししているような感じで、それぞれのお家もこういったステイのツアー用に小綺麗に整備され、食器なども揃えられていました。
一晩泊まったお家。
お肉を食べない食習慣とのことでした。
ステイ先には小さな子が。日々いろいろな大人の外国人が出入りするからか、人見知りもほぼなく、人懐っこい子でした。
奥にうっすら見える氷山はボリビアの。
そして翌日最後の島へ移動。
民族衣装に特徴があって、帽子やマント、色遣いなどで男女それぞれ独身か既婚か、村の長だけが被れる帽子などの区別があるらしい。
帰りがけにまた浮草の島を横切りながら、市街地へ帰ってきました。
ここプーノはペルーの中でも標高がとても高い地域、標高約4000メートルにのぼります。少しゆるやかな坂を歩くだけでもすぐ苦しくなるし、夜寝ていても息苦しさを感じる、そんな感じ。でも魅力たっぷりの街でした。
プーノのバスターミナル。
そして次はここプーノからバスでクスコへ。マチュピチュを目指しました。途中の景色もとてもおもしろい。
クスコの街には圧倒で、さすが世界遺産マチュピチュの街、観光で賑わい、街もとっても素敵。
街灯もおしゃれ。
翌日からは「マチュピチュ」へ行くために移動。リャマもアルパカもいます。
途中の塩田にも圧倒。ここは本当にすごかった。とてもきれいな塩田の景色でした。マチュピチュに行くなら、ここにも寄ることをおすすめします。
塩田の中で作業をする人々。
オジャンタイタンボ(Ollantaytambo)という街に着くと、そこから電車に乗ります。
そして1時間ほど乗るとマチュピチュに一番近い街(アグアカリエンテ)へ到着。到着したのは夜。
マチュピチュに入るには入場券が必要で、私たちは次の日の早朝の入場券を買っていたので翌日早起きし、マチュピチュの入り口まではバス、そしてそしていよいよ入場。少しのぼるとすぐ遺跡が見えてきます。
遺跡の中も散策。
今回一緒に行った同期と後輩隊員と。
かわいいマチュピチュスタンプ。
帰りの電車では、アメリカ人の女性と席がとなりになり、ひょんなことからお話。彼女はアメリカ人ボランティア、看護師さんでペルーでボランティア活動をしているとのことでした。休暇でアメリカから家族が来て、一緒に国内を旅行している途中でした。
クスコで食べた「クイ」。ハツカネズミ。エクアドルでも食べます。私はけっこう好きですが、日本人には不評。
ペルーのビール「クスケーニョ」。実は任地にも売っている。
マチュピチュへ行くための電車の手続きで少しハプニングがありましたが彼の手助けのおかげで無事にたどり着くことができました。別の日本人ツアーグループのペルー人ガイドさん。日本語かなお上手でした。
そしてマチュピチュ観光を終えるともう旅も終盤。
クスコからリマへ国内線、リマからバスで南に4時間ほど行ったところに、イカという街があります。ここの気候は暑く、乾燥地帯。ここで同期の環境教育隊員が活動しています。
すぐそこに見える砂漠。イカの観光地、「ワカチナ(Gwakachina)」という砂漠地帯です。
ペルーの名物海鮮料理「セビーチェ」。海鮮をレモンでしめたお料理。
この海鮮スープの日本人向けの出汁のきいたやさしい味でペルーはごはんがおいしいです。エクアドルよりもずっと。
インカ文明の博物館をさらりと一周、そして慌ただしくリマへの帰路へ。私は再度陸路でエクアドルに帰国するため、もう一度国内の最北の空港ピウラへ、そしてそこから同じバス、今度はエクアドルに戻るバスに乗り、同じ国境で、ペルー出国、エクアドル入国審査を通り、無事帰国。
ペルーからのエクアドル・ロハ行きのバスと乗車券。
でもペルーは街の至る所にごみが無造作にばらまかれたような捨て方をされていました。汚かった。観光地と移動中の幹線道路沿いの風景との差も感じる。貧富の差も感じる。
ペルー出国時、審査所内のシステムダウンで1時間以上何もせず待ったりもした。
あっちはエクアドル。
そして無事ペルー出国時、再度渡った国境の橋で見つける。日本の大使館との援助で作られた橋でした。
エクアドルが見えてきてほっとした瞬間。
川とその上に架かる橋1本を隔てるだけの向こう側に別の国が広がっている、それはなんだか不思議な空間でした。でも私たち日本人にとって常に外国=違う言葉を話すところ、日本語が通じないところ、という意識ですが、別の国に行っても、自分たちが話す言語が同様に使われていて、その言葉で他の国の人とコミュニケーションが取れる、そんなことができる可能性を秘める国々に住む世界はまたそれはそれで素晴らしいだろうなと、他の国がもっと近くに感じることができて、大きな可能性が広がっているなと思いました。
そして任地の生活も大詰めではありますが、なんだか荷造りや餞別の品の作成にまだまだ本腰を入れて取り掛かれません。JICA事務所で行う最終報告、任地で行う最終報告が近づいてきています。ドキドキ。
最後までみんなとの時間を楽しめますように。
クマンダ
最近は「Poco a poco」というかんじです。「Poco a poco」とはスペイン語で「少しずつ」という意味です。「ポコ ア ポコ」と読みます。音楽用語にもあるので聞いたことがある人も多いのではと思います。
「Poco」は「少し」という意味。いろいろなことを少しずつやってきましたが、少しずつ終わりに近づいてきてるようです。周りには「もう帰る、もう帰る」と言いふらしていますが、私が一番実感が湧いていません。
昨日、無事に先月から開始した子供向け社会科見学ツアーの全日程が終了しました。
市内5つの小学校の7年生(日本の6年生)の全児童に参加してもらいました。週一回の最終処分場と浄水施設の見学です。
最後の学校のクラスはみんなノート持参でした。
この活動をするにあたっては、私達の部署だけではもちろんできなくて、下水道管理課の同僚、市役所からお金を払って依頼をした市のバス会社の協力、対象学校の参加協力などなど。私が一度キトに部会の活動で行かなければいけなかったときには部署の同僚Paolaが私の代わりに同行してくれていました。ありがとうPaola。
すべての関係機関には正式文書で見学が始まる数週間前に日付や時間などは通知済ですが、エクアドルでは通知しただけでは忘れられる、自分たちのスケジュールには落とし込んでくれない、気にしないことがふつう。なんのための文書なのかもわからないですが、そこを考えてもしょうがないため、とりあえず私は私にできる日本式の丁寧な方法で、毎週、前日に各関係機関に訪問して再通知して回っていました。学校に行って校長先生にお伺い、「文書送ってるんだけど、その件覚えてる?」というところから再度始まります。活動の主旨を改めて説明するともちろん先生たちの反応は良い。そこから対象クラスの担任の先生につないでもらい、活動の説明をもう一度して子どもたちを連れていくことと担任の先生にも参加してもらうことを確認、そしてバス会社にも電話、基本はこの電話はカウンターパートのオルランドにお願いしていました。でも電波がないときは連絡がつかず、確実に手配が漏れていることしか予想されないので、直接会社のオフィスに行って確認をすることもありました。できればここで来てくれる予定の運転手さんの電話番号も入手して、あとで個別にもメール(運転手さんは毎週変わるので都度確認しないといけませんでした)、そして下水道管理課の同僚にも時間をお知らせして、子どもたちに説明してもらえるよう浄化施設での待機をお願いする、ということを各回の事前に行っていました。各学校の対象クラスは毎週変わるので都度お知らせするのは仕方ないにしろ、バス会社と下水道管理課の同僚にとってはもうルーティンであったにも関わらず、この事前確認作業を怠ると100%の確率で事が進まないのがわかっていたのでこちら発信で行っていました。みんな、人が言っていることはすぐ忘れて好き勝手に動いてしまうから、事前に「明日絶対してね!」とお願いしておくことが必要。活動の中身自体よりも大人相手のこの毎週の調整作業のほうが私にとっては大変でした、というか面倒くさかったです。だからといって、こういう細かい確認や手配作業をエクアドル人がやるのはなかなか難しいので、しょうがないです。もしエクアドル人だけで進めていたら、調整不足によりいろいろ問題は直前で生じるものの、その場その場で彼らはなんとかやっていくので(人を待たせたり、グダグダはもちろんするけど誰も気にしない)、彼らにとってはそれで良いんだと思います。でも私の場合は「子どもたちが待っているのにバスが来ない…説明するはずの同僚がいない…」とか直前でグダグダするのも嫌だったし、日本人なら誰しもわかると思いますが、気持ちもハラハラしてしまうので、事前にちゃんと念押しをして当日事がスムーズに運ぶように調整していました。もちろん事前の確認は日本でもある程度は必要だとは思いますが、確認範囲や量のレベルはエクアドル式、日本人と一緒に進めるやり方では何も進みません。直前でグダグダしたり、人を待たせたり、調整不足だなと思わせることをエクアドル人は一切気にしないので、その精神力には参ります。
それでもなんとか毎週活動を進めて、予定していた対象のクラス全てで行うことができたのは、カウンターパート、手伝ってくれた部署のPaola、下水道施設の同僚、バス会社の人たち、学校の先生たち、積極的に参加してくれた子どもたち、みんなのおかげです。「本当にありがとう」と思っています。実施校の中には、今度は先生たち対象にこの活動を行ってほしいという声ももらいました。
無事に毎回実施後には子どもたち向けにアンケートも実施して、形式上ではありますが、子どもたちの感想を集め、レポートにまとめることもできました。エクアドルでは「やったという事実がすべて」で、今回のケースであれば「処分場に行った」という事実で終わり、「行った」という事実が「勉強した」ということになります。見学してどう感じたのかとか、そこから何を学んだか、どう生かしていけるかを考えるということは二の次、日本とは逆です。このアンケートの内容、彼らが書いたことも、もちろん参考にはなるけど、私はこのアンケートには「彼らが最終処分場や浄水場施設で働く様子を見て、どんなことを感じたか、どんな発見をしたか」を少しでいいから振り返る時間を作ってほしかった、その目的で行っていました。それができただけでよかったと思います。
あとは滅多にない外に出かけて行うアクティビティに子どもたちが喜ぶ様子や、先生たちも一緒に知ろうとしてくれたので、そういう姿が感じられた時は、とてもうれしかったです。
基本先生たちはみんな協力的だったので、その点も感謝しています。最終日には少し印象深い出来事もありました。
最終処分場では慣れない人にとっては少しニオイがきついコーナーもあるので、子どもたちと先生にはマスクを配っていました。最終処分場から浄水施設に移動してくると、浄水施設でもう不要になったマスクを落としていく子がいました。私が事前にマスクはポイ捨てしていかないで、置いて行かないでねと、学校に持ち帰って捨てるようにと伝えていたら、落とされたマスクを見て先生がクラスの子どもたち全員に誰のものかを確認してくれました。日本だったら「あ、オレのだ…」と思ってもなかなか手を挙げられなかったりするけれど、その点エクアドルは良い雰囲気で「あ、オレオレ!オレのマスク落ちてた!」みたいな感じでちゃんと手を挙げてくれて、私が彼に落ちていたマスクを渡すと「ごめんなさい」と言いながら受け取ってくれました。私も「ありがとう」という気持ちで一杯になりました。
そして今月はありがたかったことに、3回ほど隊員が私の任地に遊びに来てくれました。
中でも私の大切なエクアドル人のお友達「Cumandá」(クマンダ)が遠いところからヤンササまで来てくれたことには驚きつつも、心からうれしかったです。今回のタイトルは彼女のお名前です。
彼女とは、以前サントドミンゴという街に遊びに行ったときに、その街に住むボランティアから紹介され、そのときにいろいろなお話をしました。彼女は中国に留学したことがあって、ふだんは英語とスペイン語の通訳のお仕事をしています。人と知り合うとき、異性同性関係なく、初対面で「この人と仲良くなりたい」とか「仲良くなれるだろうな」とかそういう感覚を持つ人って不思議といると思うのですが、私は彼女にエクアドル人で初めてその感覚を覚えました。サントドミンゴの街を案内してくれたときも、自然なかんじで私達日本人に気を遣ってくれたりして、それがすごく感じ良くて素敵だなぁと思うそんな雰囲気の女性でした。
そこから距離は離れているのでもちろん定期的に会うということは出来なかったのですが、気にかけてくれていたようで、今回私の帰国前に任地まで遠い所会いに来てくれました。彼女の名前は私のステイ先のお姉ちゃんの名前と一緒で、エクアドル人にしては少し珍しい名前。なので、そういう話をしたりもできて、知り合った場にいた隊員の中では私と一番話をしてくましたし、すぐに仲良くなれた、そんな気持ちが不思議としました。
ということでせっかく来てくれるから何かおもてなしをしたいなぁと、以前からカウンターパートのオルランドが日本食をみんなで食べたいと言ってくれていたので、部署の同僚たちと近隣の隊員を呼んで、みんなで会食をすることにしました。
人数は10人分。こんなにたくさんの人の分を一度に作ったことがなかったので、恐る恐るでしたがなんとか無事に出来上がったのでよかったです。私の顔は少し疲れ気味。
鶏肉の照り焼きやポテトサラダ、ナポリタンなど。
そして翌日も私の活動を一緒に見学してくれて、午後は街を少し案内、そして夕方に帰っていきました。
本当にうれしかったし、すてきな思い出ができました。ありがとう、クマンダ!また会える日まで。私の右側にいるのがクマンダ。任地に来るまでの途中の街、クエンカで買ったと思われるかわいい箱とその中にお手紙を添えて別れ際にプレゼントしてくれました。お手紙を読んだときは少しこみ上げるものがあったなぁ。私からはバスの旅のお供に1週間かけてパン粉の改良を重ね、無事完成したコロッケをソースと一緒に渡しました。前からコロッケを食べてみたいと言ってくれていたので、食べてもらえてよかった。バスの中でおいしく食べる様子もあとから写真で送ってくれました。食べてくれてありがとう~。
ヤンササの文字の前で3人で。
そしてその週末にはもう一人のクマンダ、ステイ先のお姉ちゃんと、一緒にお昼ごはんを作ることになり、今度は別のメニューを作ってみました。
ロールキャベツ。
こちらも好評だったのでレパートリーに加えます。
エクアドルに来てからごはんを作る機会は格段に多くなり、また自分の作ったごはんを食べてもらう機会も増えました。私のステイ先では、特に食生活を大切にしている気がして、しっかりとおいしいものをみんなで食べるというのが彼らのモットーに感じます。それを見ていて、ごはんを作ること、ごはんを誰かのために作ること、おいしいものをしっかり食べるということの大切さ、根本的なものに改めて気づかされた気がします。
部署で行っている日本語クラス。生徒のサウルくんはメキメキと知識を増やしてくれています。すごいなぁ。単純にとても賢いな、と習う様子を見ていて感じます。すぐにどんどん入っていく。前にも書いたけど、ここでは挨拶文化がとても大切で、フレーズもいろいろあります。部署では今、朝の挨拶、お昼の挨拶、お昼ごはんに行くとき、その日を終えるとき、少し出かけるときなどなど、最近は部署の同僚、カウンターパートのオルランドとディエゴ、パオラと日本語で挨拶するようになりました。うれしい、覚えてくれてありがとう。
この日のクラスはクマンダが遊びに来てくれた日、彼女も同席してくれて、いろいろ助けてくれました。
そんなこんなで、明日から最後の旅に行きます。ちなみに行き先はペルー。
また報告しますので、おたのしみに。
ラスト環境部会とコスタへの旅
5月のあたまはエクアドルでも連休があって、他の街から隊員が遊びに来てくれていました。海沿いの街で防災教育隊員(エクアドルの海沿いは地震や津波による防災対策のニーズが多いため)として活動する仲間が私の環境教育の授業に興味を持ってくれ、見学したいと言ってくれたので授業も見てもらいました。彼女は東日本大震災後、被災地の行政でも働いていたり、ハイチの災害のときも現地での活動経験がある、豊富な経験の持ち主。こういういろいろな人々と出会って刺激をもらえるのも協力隊ならでは。
この日の授業には部署のパオラに同行してもらいました。
防災隊員の彼女と一緒に食べた任地のお昼ごはん。お魚は少し高いごはんなので、我々にしては奮発して3.5ドル。スープも付いています。
夜はみんなで夜ごはん。日本人とビールを飲みたがってくれていたディエゴもご招待。私たちとのお話を楽しんでくれていて、私も同僚と隊員仲間が仲良くなってくれてとてもうれしかったです。ディエゴともう一人のボランティアのお誕生日のお祝いも。
先週は4日間首都に滞在し、環境教育部会での打ち合わせを行っていました。
キトでのお昼ごはん。エクアドルでの一般的なお昼ごはん。これにスープも付いて、3ドル。任地や地方に行くと同じような内容だと2ドル~2.5ドル。
今回の部会で私が参加できる部会はこれで最後。キトで小学校教育の隊員として活動されているシニア隊員さんの声掛けにより、今年8月に行われるキト市内の教師向け大規模研修会の中に環境教育講座の時間も組み込んでくれることになり、そのプログラム決めをみんなで行いました。私は帰国後なので実際には参加できませんが、どんなものにするかというところで少し関わらせてもらうことができました。とても大変なイベントになるとは思うけど、成功を祈ります。そしていつも環境教育部会を行う時に内輪で行う毎度恒例のみんなの活動進捗状況の発表。これも今回が最後ということで、なんだか少し感慨深いものがありました。
現在の部会メンバーと私たちをサポートしてくれているJICAのナショナルスタッフ。こちらもお名前はフアン・カルロス。彼には普段からとってもお世話になっています。私たちボランティアからも人気者。
報告会つながりで言うと、今回この部会でキトにあがる前に任地、市役所で非公式の最終報告会を行いました。非公式?というかんじですが、公式には6月中旬にJICAのナショナルスタッフの参加のもと行う公式の最終報告会を行う予定です。でも今年は少し特別。5年に一度の市長が変わる時期。市役所内では市長が変われば、退職を迫られる人材が多くおり、新たな顔ぶれになるとのことです。でも私がヤンササに来てから、市役所で関わってきた人たちは圧倒的にこれまでの市長派閥の人々になる訳です。私にとっては派閥とかは正直関係ないし、できればあまり関りたくないのですが、個人個人で見て、所内で会えば挨拶して簡単な話をして、日本人という認識を持ってくれて、私という存在を知ってくれて私の名前を呼んでくれていた人々であることには変わりない訳で、それに対しては感謝の気持ちを表したいし、もがきながら私がやってきたことを伝えておきたいなと、そういう思いで、今回市長が変わることで市役所を去るであろうと予想される人物に声を掛け、小さな報告会を行いました。
まぁ正直当日もエクアドル人に振り回されて、押さえていた会場を横取りされて、報告会ができない疑惑も浮上し、いったん私はあきらめモードに入ったのですが、意外に同僚たちのほうが「落ち着け落ち着け」と私が作って持って行ったケーキを食べながら、ゆったりと構えていて、なだめられながら、なんとか強行しました。これも相当エクアドル流でしたが、それでもやらないよりはよかったかなと思います。なんだかんだでみんな私の発表時は聞いてくれていました。
左から、「カルロス、チャチャ、(私)、ルイス、ガロ、マヌエル」、市役所の評議員さんたち、言うなれば市長の側近たちです。部署が近く、いつも挨拶したり、変な冗談を言い合ったりする適当だけど気の良い人たちでした。前にも書きましたが、カルロスは敬語口調での日本語挨拶をマスターしてくれ、私の左隣の変な方向を向いている人物は、ステイ先のお姉ちゃんの義理のお兄さんにあたるので、家族の集まりのときなどご一緒する機会もあり、右から二番目のガロはステイ先のお兄ちゃんのバスケ仲間というそんな任地の人間関係。彼も会う度に「オハヨー」と挨拶してくれます。そんなこんなで明日5月14日、市役所には先日の選挙を制した新たな市長とその人々が来ます。もちろんこの派閥に左右されない雇用形態の同僚もいるので、彼らとはこれまで通りですが、それでもきっと所内の雰囲気はガラッと変わるのではと思っています。この新しい市長陣とは約1ヵ月だけですが、どんなかんじなのかは私も少しは感じられるのかなぁと思います。新たな市長はあまり環境分野に興味を持っていない?疑惑もあり、これからのヤンササが少し心配でもありますが、よそ者ながらにギリギリまで動向を見守っていきたいところです。
今回のキトでの部会前にはエクアドルのコスタ地域を観光することに。
最大都市のグアヤキル、そこからバスで4時間ほどの同期隊員の任地(私の任地からは遠すぎてこれまで行けていなかったところ)にお邪魔する目的。海沿いのコスタの雰囲気を感じて、そしてこれまで通ったことのないルートでキトにあがりました。
赤が任地⇒ロハ→グアヤキル(バスで10時間)、ここでグアヤキルを少し観光。一回登ってみたかったサンタアナの丘に。山の斜面にへばりつくように建てられた建物たち。ここは以前は、スラム地区でしたが、治安対策と観光政策の一環で整備された場所。建物がカラフルに塗られとってもきれい。海も一望できます。
階段は全部で444段。丘の上には教会。
「Malecon(マレコン=川沿いという意味)」も一望。
そして一泊半後、グアヤキルから青の線でマナビ県へ入り、ポルトビエホ(スペイン語で「旧港」という意味)という街へバスで4時間の移動。
グアヤキルのバスターミナル。いつも思うけどさすがの規模。
グアヤキルからマナビ県への道中。
ビエホポルトビエホへ到着。
2016年に日本で起きた熊本地震の3日後、ここマナビ県にも大きな地震が起き、多数の死者を出している被災地です。街にはまだまだ被災の跡が残っていました。空地も多かった。
そしてここから同期の任地へ。ポルトビエホからバスで1時間です。「San Placido」(サン・プラシド)という小さな街。
任地にも雰囲気が似た、暖かくてのどかな街でした。
マナビはコーヒー産業が盛ん。この同期隊員はコミュニティ開発隊員として、県庁でお手伝いをしながら近くのコーヒー農家さんの支援を行い、生産者の売り上げ向上を目指す活動を行っています。ということで彼がお手伝いするひとつのコーヒー農家さんも訪問。
その名も「セプロカフェ」。
ここで豆を持ち込んだ各コーヒー農家さんにお金を払います。以前はもっと簡易で強盗が入ったことをきっかけに金網を設置し、セキュリティ強化。
農家さんの台所。
ポルトビエホで食べた名物の「ビーチェ」。お魚が入ったピーナッツ風味のスープ。おいしい。
マナビ県で活動する他の隊員も合流し、今度行われる日本文化イベントの打ち合わせに参加させてもらう。右側のエクアドル人が同期のカウンターパート「ドゥマル」さん。JICAの報告会などでも会っているので既に彼とは知り合い。
同期の事務作業場と化すドゥマルのお家でひと休憩。
そして、紫のルートでポルトビエホからバスで1時間弱で行ける観光地の海沿い「Manta」(マンタ)にも足を伸ばすことに成功。数時間、海辺を感じました。
きれいな夕日も。
そして同期の任地をあとにして、緑のルートでキトへ。バス乗り継ぎ2回で合計約10時間。途中の大きな街ケヴェードやサントドミンゴという街を通りました。この辺りは街の間に広大なバナナ農園やカカオ農園が広がります。
カカオの木。
バスのお供に車内で揚げバナナ+チーズの軽食。50セント。
途中の街の風景。
ケヴェードのバスターミナルも大きい。
バナナ農園とサントドミンゴのバスターミナル。
今回はロハからグアヤキルに向かう途中、バスのタイヤがパンクするという珍事件に見舞われ、約2時間ほど足止め。振替手続きも一切されない中、乗客も積極的に手伝うという、みんなの協力のもと再び出発することができました。
そんなこともあり、移動に疲れた中、グアヤキル手前でバスから見れた夕日は、きれいでした。
協力隊で来なかったから絶対来ることはなかったエクアドル。嫌なこともたくさんあったし、理解できないことだらけだけど、やっぱり好きなところもたくさんあるし、いろいろな人に助けられました。その気持ちを帰国時にちゃんと伝えられるかな、そんなことを考える最近です。
お宅訪問
先日、知り合いのお家にお邪魔しました。彼は、私の前任者ボランティアの存在も知っていたようで、市役所の人ではないのですが、私が市役所をうろうろしていたときに知り合い、友達になりました。
彼はサラグロというロハとクエンカの間の街を発祥とするインディヘナ(サラグロ族)の人です。男性も髪の毛を長くして、後ろで三つ編みをし、ズボンは七分丈の黒いズボンというスタイル。女性は民族衣装を着ています。男女ともに黒いハットを被るのが正式なスタイル。
このサラグロ市から流れてきて、私の任地であるヤンササ市に移り住んできているサラグロ族の人々が多くいます。県内サモラ・チンチペ県の中では、県都であるサモラ市やシエラとの県境に接するヤクアンビ市というあたりにも多いのですが、やはり人々の流れはすごい、ここオリエンテのヤンササ市まで流れてきており、任地ではこのサラグロ文化もアマゾンの文化と並んで、ヤンササを代表する多様性のひとつになっています。
彼が住んでいるのは街の中心から市内バスで20分ほど下ったところ。
場所はSan Sebastián(サン・セバスチャン)という地域。小さいコミュニティです。このコミュニティ行きのバスは1日に2回、市の中心のほうとを巡回していて、朝一と夕方。この日は朝7時に教会前の中心のバス停から乗り、13時半に通るバスに乗り、14時過ぎには家に帰ってくるという健康的なコース。
彼らのお家はバスが通る道から外れて、少し山の中に入ったところ、バスから降りて歩いて15分ほどのところにありました。
着くとジュースを作ってくれます。フルーツがそこかしこで取れるエクアドル、特にこのオリエンテ地方では朝ごはんにジュースは欠かせません。私も朝のジュースはもう習慣化して、自分でもいろいろなフルーツを混ぜて、基本はステイ先のお母さんが混ぜるバリエーションを真似して、作るようになりました。
このフルーツはグアヤバ。
お父さんやお母さんはとってもかわいらしい方々で、なんだか絵本から飛び出してきたような、そんなかんじでした。妹さんにも会うことができて、とても親切な方でした。
彼らの敷地内では牛を4頭飼っていて、お父さんが日々お世話をしているようです。私が到着したときにはすでに牛の面倒を見にすでに出発していて、お父さんがいるというあたりまで案内してもらい、挨拶をして、帰ってきて、簡単な朝ごはんをごちそうになりました。甘いバナナを煮たものとチーズと天然の卵。良くあるオリエンテ地方の朝ごはん。
そして家の周りの畑を案内してもらいます。
敷地内を移動するための橋とかもある。
caña(カーニャ=さとうきび)から砂糖や蜜を作るための機械。
魚(ここではtirapiaと言います、ティラピアと読む)を取り、お料理して食べて帰ってきました。
お家を裏側から見るとこんなかんじ。
今回とても親切にしてもらったし、彼らの雰囲気もとても穏やかで、すてきな人たちだったので、もう一度任地を離れるまでに訪れて、何かお礼ができたらと思っています。
市役所で週2回行っているSaul(サウル)への日本語教室。
日本語に比べてスペイン語は比べられないほどの動詞の活用形を持っています。例えば「行く」という動詞の原形は「ir」(イール)ですが、主語が「私」のときは「voy」、「君」だと「vas」、「あなた」だと「va」、「私達」は「vamos」、「あなたたち、彼ら」では「van」と主語によってすべて変化し、これは過去形、未来形、命令形などの区別によってもすべての主語によってまた別の異なる活用をして変化します。それも小さな変化を重ねる。なのでそのあたりの活用への対応力に関しては、訓練されているのか、もともと頭の回転がはやいのか、難しい部分もそういうものとして受け入れ、理解してくれているように感じます。やはり小さいころからスペイン語を話す人は基本的に外国語を学ぶ能力が高いのかもしれません。動詞の形が変わることに関してはごく自然に受け入れますが、逆に日本語を書くことに関しては少し抵抗があるのかなと感じます。日本語を書くと、エクアドル人のお決まり文句、「棒ばっか書いてる~、まるでただの記号だ」と言われる。同僚のディエゴもいろいろなフレーズを覚えてくれて、部署内で日本語が飛び交う場面が増えました。うれしい。
部署の秘書、パオラも自分のPCのデスクトップに日本語フレーズのメモを貼ってくれて、都度使ってくれています。
私の部署は廃棄物総合管理課ですが、この私たちの部署を統括する上部部署に環境総合部というのがあり、そこの部長が先日定年退職することに。平日の夜に簡単な夕食会を行い、部署内でも送別パーティー。このメンバーは他の部署と比べ、比較的いつも接していたみんな。前カウンターパートのフアン・カルロスもいます。写真の後列左から三番目のおじさまが今回定年退職をされたマヌエル氏。ヤンササで部会を開いたときにいろいろと協力してもらいました。