今年の家族ニュース

活動とは一切関係ないのですが、個人的にも、そしてステイ先の家族にとっても大きな出来事が少し前にあったのでブログにも記録しておきます。

11月12日の早朝にステイ先のお母さんのお母さんが亡くなりました。ステイ先のお母さんにとっては、自分のお母さんなので彼女を呼ぶときは「ママ」と呼んでいましたが、それ以外の家族はみんな彼女のことを「おばあちゃん」と呼んでいました。スペイン語で「おばあちゃん」は「abuela」(アブエラと読む)と言いますが、abuelaだけだと日本語で言う「祖母」というかんじに近いと私は勝手に捉えていて、前に少し書いたここの独特の「cariño」という習慣、人や物に対して愛着を持ってかわいらしく言う言い方、なので日本だと「ちゃん」付けしたり「君」付けしたり、物に対して「お」を付けたりする、そんなイメージ。その言い方を使ってふつうは「abuelita」(アブエリータ)と彼女のことを呼んでいました。こうすることで、「祖母」という意味から「おばあちゃん」という雰囲気になるのかな。

私が任地に到着してすぐ、なので今から約1年2か月ほど前におばあちゃんの誕生日パーティーがあり、そのときの写真。奥の緑のワンピースを着ているのがおばあちゃん。

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実はおばあちゃんは亡くなった時期のその1,2か月前、今年の9月中旬頃から体調を崩していて、それまではずっと私のステイ先のとなりにあるお母さんのお兄さんのお家で過ごしていましたが、体調が悪くなってからはステイ先に移動し、お母さんが全面的に面倒を見ていました。前に書いたように今年の9月中旬、おばあちゃんがステイ先に移動してすぐ、ステイ先のお母さんとお父さんは娘の1人のアメリカ移住に付き添い、1,2週間ほどアメリカに行っていました。そのときは私が朝起きると、まだ誰も他の娘たちが朝食を作りに現れないけど、おばあちゃん一人で起きあがって台所でお湯を沸かし、甘いコーヒーを淹れていたりもしました。お母さんたちが無事にアメリカから帰ってきて、今度は私が日本に2週間ほど帰国し、日本からエクアドルへ帰国、「みんなは変わりない?」という声をかけると、お母さんからは「私のママの体調が良くない以外はすべて変わりないわよ」という回答が返ってきていました。それからというもの、やはりおばあちゃんの体は良くなく、1ヵ月ほどはロハの病院でいろいろな検査をしながら過ごし、お母さんは付き添いでロハに滞在することが多くなり、少しステイ先はバタバタしていました。他の兄弟から「おばあちゃんの状態が良くない、死期が近づいているかも…」というような雰囲気は察していましたが、時間は過ぎていき、11月に入って、おばあちゃんもヤンササに帰りたいと言っているし、病院でできることももう無いようだから、できるだけ早く家に連れて帰ってこようという雰囲気になり、11月の2週目ころにロハを引き上げ、ステイ先での療養が始まりましたが、それから1週間が経っておばあちゃんはステイ先で亡くなりました。療養期間の1週間は家族もできるだけ近くにいたり、親族や関係者が代わる代わるお見舞いに訪問にくるという日々が続き、亡くなる前日の夜、ちょうど歌い手を呼んで、ギターを弾きながらキリスト教関係の歌を寝室でおばあちゃんを囲んでみんなで遅くまで歌ったりもして、私はそれを自分の部屋から聴いていました。まさかその数時間後に亡くなるとは思いもしなかったのですが、早朝部屋の外が騒がしくなり、もしかしたらと部屋から出ていくと亡くなったとのことでした。

その日は平日でしたが、市役所には遅れていくことに。午前中はお葬式の準備をお手伝いしたり、少し見学させてもらったりして、お昼ごはんを食べてから午後配属先には出勤。準備のお手伝いには近くの親戚、友人、隣人が積極的にお手伝いに来て、いろいろな人が出入りし、しかもいろいろな部分をどんどん手伝っていきます。計画は一切しないエクアドル人だけど、土壇場でいろいろな人がでてきて、その人たちの尽力によりその場をなんとか形にしてやり過ごすというのがエクアドル流。

最初は隣人の男性が大掛かりな所から手伝う。この間、女性陣は壁に垂らす白い布のアイロン掛け。

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そしてその布をきれいに垂らしていきます。掛ける引っ掛けがないところはもうトンカチで釘も打っちゃう。

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娘たちの近所の嫁ぎ先の家族や娘たちの仲良しの旧友たちが飾り付けにお手伝い。

お葬式のときに家に出す看板はこれ。

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そして最終形態。
お葬式のときは家の前に大きなテントも出しますが、こういうものもすべて家族が知り合いのツテをたどり、借りたりします。市役所も貸してるようだけど、今回ステイ先では家族のツテで他のものを借りていました。任地ではお葬式は家で行うのが一般的。葬儀会社はロハをはじめ、都市部にはあるようですが、費用は高く、任地には葬儀会社はないし、みんな家で行うとのこと。

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お葬式は亡くなった日から3日間続きますが、家にたくさん人が訪れられるよう準備して、そしてごはんもすべてその家の人たちが炊き出します。訪れる人はみんな、炊き出し用に使われるであろうものを持ってやってきます。鶏、お米、パン、砂糖などなど。これらがここでは日本でいうお香典です。遠方から来て、長時間滞在になる人もいる中、お葬式を出す側は、朝昼晩3食の他にも、おやつなどお腹が空かないようにという来ている人への配慮なのか見栄なのか、ヒシヒシと伝わってきました。夜は、親戚の子どもたちやパティの息子たちと日本語を書き合ったり、絵を描いたりして私は過ごしました。

基本的にお葬式は朝、ある程度人々が動き出す時間から、夜、そして夜中まで続き、少しの仮眠で翌日を迎えるため、家族たちは寝不足、過労が続きます。朝、昼よりも夕方、夜のほうがみんな仕事を終えて訪問するため、人々は夜に向けて多くなり、家族総出で動き回る。家族だけでは特にごはんの用意の手が回らないため、娘たちの友人たちもお手伝いに駆けつけていました。ほぼ張り付けで調理場を手伝ってくれていた人などにはその程度に応じて家族から少しお礼のお金を渡していたようでした。2日目以降は交代でみんな仮眠を取っている様子も。2日目の夜には家でミサも行い、そして3日目の午後に正式に教会でミサを行い、その後お墓にみんなで運びます。

教会での様子。ミサ前に教会にみんなで棺を運び、無事におばあちゃんも教会へ到着。

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家族たちによるおばあちゃんの簡単な説明(どこで生まれてどういう場所で過ごしてきたか)、そして家族たちの名前が息子により読み上げられる。
任地の教会から墓地までは直線で歩いて15分ほど。少し坂がありますが、みんなで歩いて運べる距離です。

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f:id:reikomiyahara:20181226234607j:plain私たちの側の家族たちは上は白色で揃えました。今回はお葬式なので、それも大切かなと思うけど、これはスポーツ大会とかクリスマスのごはん会、誕生日会とかでもよくあること。みんなで上のプラウスの色を揃えようとか、そういうのがエクアドル人は大好き。
私も献花用の花をひとつ抱えて、ステイ先の家族のうしろを歩きました。ギター隊を引き連れ、歌を歌いながら登っていきます。このギター隊の中には、ステイ先の長女・パティの次男フアン・ディエゴも参加。おばあちゃんにとってはひ孫のひとり。今回、普段はロハで過ごしているこのパティの上の息子たち3人ともお葬式を通して一緒に演奏したり、日本のことを話したり、良い時間が持てました。

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そして墓地に着き、おばあちゃんの棺が入る場所に集まり、棺をお墓に入れる作業が始まりました。この間もずっと音楽は続いています。

あまりきちんと土葬のイメージができていなかった私にとって、どのように土葬されるか理解したときはとても衝撃的な瞬間でした。棺を入れるためのスペースに入れて、手前部分をレンガとセメントで固め壁を作って終わり。簡易だけど、なんだか「そのまま」という感覚が強く、新たな発見でした。パティの息子たち3人と私で2曲贈りました。

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スペースの手前に蓋をするように、レンガと埋める用のコンクリートが準備される。なんだか少し残酷。

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着々と進む。

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無事に棺を納める作業が終了。終了後はみんなで最後に家に集合。私はお迎えの車が来るまでパティの息子たちと一緒に待機。

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奥で顔を向けてくれているのはステイ先の長女パティの三男のサンティアゴ。一番静かであまり積極的には関わってこない彼なのでこの写真で決め顔をしてくれたのには意外でしたが、彼もまた上2人のお兄ちゃんと同様、下の2人の弟たちの面倒を見たりもしているしっかり者だと思います。ロハの大学に行きながら、本格的にカメラを勉強しているようで、この前のロハのお祭りでは市役所の一員としてカメラバイトをしていたし、私たちの音楽隊の様子の記録係をしてくれました。それでもこのように大学に行きながら好きなことをできるのは一定家庭が裕福な証拠でもあると思います。そのあたりの差はエクアドルは日本とは比べられないくらい顕著。パティの子どもたちはきっと彼女が厳しくしつけたのかな、みんな家の人の言うことを聞き、お手伝いもする好青年たちに育っています。
そしてお家でお葬式最後の夜ごはん。これも炊き出し形式で、どんどん配られます。そして次第に遠くから来た親戚や知り合いたちは帰っていき、家族だけに。その後棺が置かれていた部屋で家族の時間をみんなで過ごし、遅くに解散。いろいろ片付けはもちろん残っていましたが、その日は就寝。眠かったけど、彼らと時間を過ごすことができ、貴重な時間でした。そしてお葬式は終了しました。

とはいえ、ここからが後半戦。キリスト教の習慣で「novena」というものがあります。これは数字の9、スペイン語で「nueve」からきており、「9日間続けてお祈りする」というもの。クリスマス前も行っていたりするので、何か大事なときに行うものなのかもしれません。

ということでお葬式最終日翌日からnovena1日目が始まります。家で行っていました。これはある程度近い親族や友人たちが参加しに来ますが、夜に開始。だいたい19時とかです。家で簡単なミサをやって、家族がそれぞれ日交代で言葉を述べたりして、ミサの歌をみんなで歌い、簡単な食事を出してみんなで食べて解散。この軽食ももちろん9日間違うものを招待側(=ステイ先)が作っており、私はちょうど任地での環境部会とロハでのお祭り参加の準備が迫っていたので、このnovenaには参加しませんでしたが、大変そうだな~と思いながら見ていました。

これが2018年、最近の大きな出来事です。

 

そして家族関係のもう一つのニュース。それはステイ先のお兄ちゃん(長女パティのお兄さん)ダルヴィンが資格を取りました。この資格というのは大学を5年行くと取得できる資格「ingeniero(a)」。前にブログで一度紹介したことがあるけど、エクアドルの「titulo」という文化。これを持っていると働き口が見つけやすくなり、お給料も上がります。これを持っている人と持っていない人では仕事内容もまったく異なります。この社会制度は私は正直疑問を抱くところではありますが、しょうがないです、こういう社会なので。お金があれば(=ここでは家柄)tituloを取れるし、そうじゃなければいくらがんばってもなかなかいい仕事に就くことはできません。日本もそうと言ったらそれまでですが、でも比べられないくらいここではそれが普通です。

このお兄ちゃんダルヴィンは子供3人を持つお父さん、40歳ほどの大人ですが、より良い仕事を探せるようにとこれまでtitulo取得に向け励んできたようです。無事に取ることができてよかったです。みんなで豪華にお祝いもしました。

感謝の言葉を述べるダルヴィン。前日に友人たちとお祝いに飲んでいたようで、本人は二日酔いの中の参加。

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私も簡単にお祝いの挨拶と恒例の日本好き少年ダヴィと日本の歌を贈りました。

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これは任地でよく食べられるスープ料理。「cardo de gallina criolla」(通称「cardo」カルド。)鶏を煮込んで、その出汁が十分に出たスープとユカイモやネギを入れて食べる。これを醤油風味にしたらラーメンができると私はいつも思って食べています。とてもおいしい任地の料理。覚えて帰りたい。そして任地にいる間に教えてもらって改良してラーメンを作りたい。