araña

タイトルのarañaはスペイン語で「蜘蛛」という意味。

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これは蜘蛛のおもちゃ。大きいし、手触りは少しベタベタするかんじでおもちゃの人形とはいえ、けっこう気持ち悪い。1週間前にあったお祭りの露店にあって、ステイ先の末娘の子ども、4歳の男の子がこれにリアルに怖がってるのをいいことに面白がって、ステイ先のお母さんが購入。休日にゆっくり起きて、完璧に気を抜いて朝ごはんを食べていたら、いきなりうしろからこれが飛んできて、びっくり。飛ばしてきた犯人、ステイ先の息子に大笑いされる。こういうかんじで、ここ1週間、ステイ先ではこれを使っては大人たちもみんなで驚かせてあそんでいる、ステイ先にはそんな一幕もあります。

 

これまではエクアドルに来てからのことだけを書いてきましたが、今回は私が協力隊に参加するまでの経緯も記しておこうかと思ったので書きます。

 

私は協力隊に参加する前は会社員をしていました。大学卒業後、一般企業に就職し、忙しいながらもたのしくOL生活を送っていました。最初のきっかけとなったのは、あるつながりで知り合いだった同じ会社の4つ上の先輩が協力隊に参加するということで退職されたこと。出発前に部屋を整理していたら、自分では一切覚えていなかったけど、大学入学時に購買部に置いてあった協力隊のパンフレットが出てきたので、きっと学生時代から知らず知らずのうちに関心を抱いていたんだろうなと思いますが、海外経験もないし、外国語も特別できる訳ではないし、何か資格や専門技術がある訳ではないしなぁ、と勝手にあきらめていました。そもそもこのときはまだまだ2年間も途上国に住むということもあまりピンときていなかったのかもしれません。でもその退職された会社の先輩の話を聞いたとき、もしかしたら私も参加できる可能性があるのかも…なんて思いを少しだけ抱いたことは覚えています。ただ、そのとき私は社会人1年目を終え、やっと2年目になるとき。職場の仕事もまだまだ理解できてないし…と、退職するという選択肢は一切なく、業務を習得することに専念していました。そこから2年目、3年目…とあっという間に月日が経ち、気づいたら社会人4年目。そしてその夏にそれまでずっと体調を崩し治療していた祖母が亡くなりました。亡くなる前、日に日に弱っていく祖母を見ていて、これまでこんなに近くで人間が弱くなっていくというか、死に近づいていくのを見たことがなかったので、このときはじめて「あ、人ってこうやって亡くなっていくんだなぁ…」とこの歳になってやっと経験しました。私の中ではそんな出来事があって、いずれ私もいつか亡くなる訳で、そのときに「あれをやっておけばよかったなぁ…」とか「あの選択をしていたらどうなっていたかなぁ」とかベッドの上で後悔したくないなと思うようになって、そのときに「きっとこのまま過ごし続けたら、協力隊に参加したかったと後悔するんだろうなぁ…」という思いが少しずつ強くなっていきました。幸い会社では人間関係に恵まれて、感謝すべき環境なのはわかっていたのですが、私の中では今のこのタイミングじゃないと参加はもうできないなということも思って、さんざん悩んだ結果、「応募するだけ応募しよう。」と決めました。もちろん受かるかもわからないけど、「どうせ応募するなら最大限できるだけのことはして、それで落ちたらあきらめられるな」と。このとき社会人4年目の秋。協力隊の応募は年に2回、春と秋です。そのとき私にとって次の応募のチャンスは社会人5年目・2016年の春。落ちても何回もだらだら受け続けるのも嫌だったので、2016年の春と秋だけ受けようと決め、少しずつ準備することに。TOEICを受け直したり、健康診断に向けて食生活を気を付けたり、応募書類を少しずつ書いたり。協力隊の選考は1次が書類、2次が面接の2回で合否が決まります。書類選考は前述のとおり、TOEICのスコア(高校卒業程度のスコアで応募可能で、点数が高いから優遇されるという訳ではなく、JICAが提示する最低限のラインをクリアしていれば大丈夫なようです、もちろん応募する活動内容や国に応じてですが)、健康診断表、自己PR書類、履歴書などでした。書類の準備はけっこうなボリュームがあって、健康診断にはお金もかかるし、ちょっと応募してみようかな~とかで応募できる量ではありませんでしたが、なんとか期日までに完成させて、投函。なんとなく、もうこの時点でできるだけのことはしたし、書きたいことも書いたので、これでダメだったら秋受けなくてもいいかもな~なんてことも考えていました。少し忘れたころに結果が届き、内容は2次選考の案内でした。そしてたしかこのときに会社の上司にも話したっけ。もちろん受かった訳ではないですが、可能性として合格した場合、会社を退職しなければいけないですと伝えました。

2次選考の面接は平日。会社休めなかったらしょうがないなと思いつつ、でも幸い問題なくお休みをもらうことができ、面接当日。内容は「人物面接」と「技術面接」と呼ばれる2回の面接を同日に行います。人物のほうは基本的なこれまでやってきたこととか志望動機とか。「技術」のほうは応募した職種に適合しているかどうか。面接は少し難しいなと感じる場面もあったけど、それでも最終的には良い雰囲気で話したいこと、伝えておきたいことは全部伝えられたから、このときもこれで落ちたらしょうがない!と思っていました。学生時代の就活で嫌になるほど面接を経験しておいてよかったとこの時ばかりは思いました。

そんなこんなで無事受験が終わり、ほんとに忘れたころに結果が届き、届いた書類は開ける前からなんだか重たそうな一式。もしやこれは…と、開けると合格書類でした。あまり信じられなかったので、何度も見返した覚えがあります。2016年の夏に結果を受け取り、2017年4月から訓練に参加してくださいという通知。家族とは少しモメましたが、その時はほぼ押し切って参加を決め、訓練が始まる直前の3月末に5年間お世話になった会社を退職しました。

そこからはあっという間で訓練所ではたくさんのおもしろい出会いがあって、3か月間の語学訓練を無事に修了し、自治体への表敬訪問、家族・友人と過ごして、2017年の7月6日に日本を出発し、アメリカ経由の合計24時間のフライトでほぼ日本の裏側、遠い遠いエクアドルにやって来て、今私はここで生活している訳ですが、ここまで来るのにたくさんの人の理解と協力があってここに居れることを忘れないようにしようと思います。

 

駒ヶ根訓練所近くの桜。

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 訓練たのしかったなぁ。みんな元気かな。

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生活するっていうのは旅行するのとは訳が違くて、価値観も習慣もすべてが違う人間がひとりそこのコミュニティに入るということはすごく大変で、入り込めば入り込むほど、はるかに私の想像を超えて、泥臭いこと・嫌なこと・びっくりすること・辛いこと・いろんな人の思惑が絡み合ったり、いろいろな見方をされて、冷静に自分の置かれている環境を見ると、先が見えない暗闇にいるようなかんじもします。ふだんは感じないようにしていますが。任地にやって来て半年、まだまだ残りがあるので、一度ここで、参加するまでのことを思い出したりしながら、疲れないようにゆっくり過ごしていきたいなと思う今日この頃です。