任国外旅行 ~ボリビア~

今回は、せっかくなので先月末に行ったボリビア旅行について。f:id:reikomiyahara:20180411053350j:plain

行きはキトからペルーのリマ、そこから国内便でクスコへ、そしてクスコから無事にボリビア入り。

途中のペルー・クスコ。

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着いた都市はラ・パス。

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ボリビアの実質的な首都です。実質的と書いたのは、憲法上の首都はスクレという都市にあるらしいです。でもラ・パスが首都のように機能している中心地。ラ・パスという名前はスペイン語で書くと、「La paz」。その名も「平和」という意味。

ここ、ラ・パスにも、派遣前訓練所時代の同期隊員が2人いるので、彼らにも会うことができたし、貴重な土日を使って案内してもらいました。

乗合タクシーがかわいい。

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ラ・パスの街は谷のような形をしていて、山の傾斜にもたくさん家や建物が並んでいます。ちなみに底(低地)に行けば行くほど、富裕層が住んでいるらしい。

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ちなみにこの通りの奥に、バックパッカーをしながら手作りしたかわいいバッグやポーチなどを売っている日本人男性に出会いました。ぱっと見た瞬間、「日本人だ!」って思って、様子を伺っていると「こんにちは~。」と挨拶してくれて、みんなで立ち話し。そしたらなんと協力隊の先輩でした。1年後くらいに日本に帰って、地元でゆっくり過ごす予定らしいです。この先輩が言っていた印象的なこと、「JICAのおかげでスペイン語もある程度話せるようにさせてもらって、感謝ですよね~。」って言っていました。私も言葉がわからなすぎて嫌になることもあるけど、でも、この先輩に出会って、勉強させてもらってるという感謝の気持ちを忘れないように毎日過ごさないとなぁと改めて思うことができました。

ラ・パスの街にはケーブルカーがあります。通称「teleferico(テレフェリコ)」。

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ラ・パスの標高は約3600メートル。エクアドルの中でも3000メートル超えの街に住んでる同期隊員もいますが、私がこれまでエクアドルで経験したのは2800メートルくらいまでなので、たぶん今回のボリビア旅行で人生の中での高地記録を更新しました。寝ているときに少し息苦しかったり、ほんとになだらかな坂を歩くだけでも私はきつかった。こういうときは、任地が低地でほんとによかったなぁと思います。

このケーブルカーでさらに上へ。4095メートルの所にある「el alto」駅。

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4095メートルからの眺め。

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そしてこんな高地に何があるのだろうと思っていたら、大きな街が広がっていました。低地には富裕層がいるということはきっと高地はだんだんと貧困層になっているということなんでしょうか。なんだか少しアジアを彷彿させる景色でした。
 

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夜の景色もきれい。

みんなの一般的な朝ごはん。「salteña(サルテーニャ)」。中にお肉などを煮た具材が入っていて、味も日本人好み。とてもおいしかった~。

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これはサボテンの実らしい。ボリビアではふつうにフルーツとして食べられていた。味や食感は梨に近かった気がします。

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ラ・パス市民かな。ミサで使われる葉っぱで作った飾りを持って歩いています。

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これは桃のようなフルーツのジュース。これもかなり一般的なボリビアの飲み物のようです。茶色のほうはシナモン入り。

ラ・パスのおみやげ屋さん。

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ボリビアの伝統的なお面の顔のニット帽とそのとなりはリャマのミイラ。
時計の文字盤が反対になっているラパスの建物。なんでも今のボリビア大統領が反米主義らしく、その表れのひとつだとか。けど意図がよくわからない。

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ラ・パスで2日間過ごしたあとは、みんなで待望のウユニ塩湖へ。ウユニ空港の前。

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塩の湖。湖の大きさは日本の秋田県くらい。にも関わらず、その湖の中では高低差は50センチほどしかないらしい。場所によって、乾いた部分や少し深い部分、足の甲が水に浸かるくらいの深さなど、風の吹き具合によって変わっていきます。特に足の甲が水に浸かるくらいの部分+風が少ないと、きれいな鏡張りになって、とってもきれい。この鏡張りの写真が有名です。

そしてウユニ塩湖があるウユニ市の標高は約3700メートル。ラ・パスよりもさらに高い。もちろん少しきついと感じる場面もあったけど、塩湖に感動して、そのことは忘れていました。

塩湖の中に入るにはジープのような車で行かないといけないので、ツアーに申し込まないといけません。ウユニ市内中心から塩湖までは車で40分くらい。水が深い所を進むときはゆっくりゆっくりになるので、さらに時間がかかります。今回は2つの会社で申し込んで、そのうち1つは日本人のガイドさん、ちなみに協力隊OBの方でした。もちろん協力隊時代はボリビア隊員。

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ツアー終了後もみんなで話したり、最後まで良くしてくださりました。

ウユニ市内から塩湖に行くまでの途中にある「cuicocha村」。塩湖が有名になってからは観光業もさかんになっているそうです。

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この村の中にある学校。

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そして塩湖へ。

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鏡張り。きれい~。

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ちなみにラ・パス、ウユニの家庭ごみはちょっとよくわからなくて、いくつかごみ箱は設置されているものの、道の真ん中に、どさっと袋にも何も入れずにそのままのごみが置かれているのか放置されているのか、捨てられているのか・・・というような状況でした。ウユニはさらにここ何年かで激しく有名&人気になった観光地なので、環境汚染やごみの問題は深刻なんだろうなと思います。

ウユニ塩湖内で観光客が乗ったジープ同士の衝突事故の記念碑。片方のジープは日本人観光客でした。

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ボリビアではコカが合法。この写真はコカ茶。街でもコカの葉っぱを口に含みながら働いている人がたくさんいました。

 

そしてウユニの2日間を無事に終え、ここからは少しみんな分かれて、他のボリビア隊員がいる街にバスで向かう人、そのままウユニに残ってさらに他のきれいな湖ツアーに参加する組など。私の次なる目的地は「サン・フアン」というところ。ここにも一人同期隊員がいます。彼女は訓練所のスペイン語クラスが一緒でした。訓練所では半分以上が語学訓練にあてられるので、語学クラスが一緒だと、ほとんど毎日顔を合わせるし、一緒にお昼ごはんを食べたり、過ごす時間が多かったように思います。彼女は2回目の協力隊参加で、今回は日系日本語教師という職種での派遣。日系社会で日本語を教えるという活動内容。ということで、私が訪れたサン・フアンは日系移民の移住地です。ボリビアには2つの大きな日系社会があり、ひとつはこのサン・フアン。もうひとつはコロニア・オキナワ。コロニア・オキナワは沖縄からの移住者の街。コロニア・オキナワにも一人同期隊員がいますが、今回はオキナワのほうには行かずにサン・フアンのみになりました。もちろん観光ガイドブックにも載っている日系社会ですが、なかなかこういう風に知り合いがいないと日系社会に遊びに行ける機会もないかなと思い、今回あそびに行くことにしました。サン・フアン隊員の彼女もちょうどウユニに遊びに来ているということで、ウユニからサン・フアンまでも一緒に向かうことができ、移動もスムーズ。ウユニから国内線でサンタクルスへ。ここはボリビアの中でもとても大きい都市で、大学もあるし、近代的な街です。その分他の都市や街に比べたら少し治安は悪いらしい。サンタクルスから車で2時間半くらいのところにサン・フアンはあります。前にテレビで一度だけ見たことがあった日系移民の歴史についても今回さらに知ることができたり、今回訪れたことでなんだか身近に感じられました。

移住地の入り口。

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そして裏側。

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入り口近くにある介護施設。ここでもシニアの高齢者介護隊員の方が忙しく活動されていました。

移住地の中ののどかな風景。

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病院。

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スーパー。

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移住資料館の敷地内にあった記念碑。

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このサン・フアンでもこどもたちはとても素直。思春期の年齢の子たちも彼らから元気に「こんにちは~。」と挨拶してくれました。日系の子たちはふつうに日本語を話します。サン・フアンにある学校は中学の途中くらいの学年くらいまでらしく、ここを終ええると、みんなサンタクルスの中学校高校に編入するそうです。でも休日ごとにサン・フアンに帰ってくる子が多いみたい。私たちが訪れた時期もキリスト教の「semana santa(セマナ・サンタ)」(キリストの復活をお祝いする行事)で学校はお休みとかで里帰りしている様子でした。

サン・フアン学校内。

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幼稚園にも入らせてもらいました。

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そして日系1世の方のおうちで夜ごはんをごちそうに。このお母さんは6歳ころにボリビアに移住されて、お母さんが来た頃には、移住地にはもう道ができていたそうですが、お母さんの旦那さんが移住してきたときには道も何もない、本当の原始林だったらしいです。今回案内してくれた日系の青年たち、彼らはだいたい3世にあたるそうですが、この広大な大地で農業を生業にしています。自分たちはもうある程度の環境がある中で生まれたけど、彼らにとっても原始林から開拓したというのは本当に信じられないと言っていました。ちなみにこのお父さんは「日本は異国というかんじかな」と話し、お母さんは「こっちの生活があるからたぶん無理だけど、できれば日本で暮らしたいなぁ」と話していました。なんでも日系のお友達がエクアドルに住んでいるとか。それで今回エクアドル隊員が来るよってサン・フアン隊員の同期がお母さんたちにお知らせしてくれて、ぜひごはん食べましょうって言ってくれたそうです。

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日系の青年たちに広大な土地を案内してもらう。日系の方々はここで農業、畜産業を営んでいます。

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野生のダチョウ。

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これはマラクヤというフルーツ。エクアドルでもジュースに使うとっても一般的なフルーツ。

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日本食の食堂で食べた冷やし中華とからあげ。日本に居る時はあまり冷やし中華は好きではなかったけど、久しぶりの味に感動しました。
サン・フアンで1日半、空港があるサンタクルスに移動して約半日、過ごしました。

サン・フアンからサンタクルスへ。

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そして都会・サンタクルスへ。

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ちなみにサンタクルスにいる同期隊員は2人。柔道隊員と映像隊員。

任地が遠く、エクアドルに帰ってからも家に着くまで道のりが果てしないので、私は1日はやく帰ることにして、サンタクルスからラ・パスまでまず移動。ラ・パスでウユニで一度別行動になったエクアドル隊員の同期と合流して、ラ・パスからコロンビアのボゴタ空港へ。そこからエクアドルグアヤキルへ帰ってきました。ボゴタの空港で到着が遅れて、グアヤキル行きの便に乗り遅れるというハプニングがあったものの、スムーズな手続きをしてもらったおかげですぐ次の便に振り替えられ、特に支障は出ませんでした。ボゴタの空港はとっても大きくて近代的で、久々においしいピザを食べることにできて、異空間を味わいました。

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ただここで同期と調子に乗ってピザに唐辛子をたくさんかけて食べたら、のちのちお腹が大変なことになり、グアヤキルに着いてから任地に戻る長距離バスの中でヒヤヒヤする時間を過ごすことになりました。

空から見るエクアドルの大都市・グアヤキル

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そんなこんなでとても充実した時間を過ごすことができたボリビアへの任国外旅行。移動時間を入れると10日間、そのうちボリビアには7日間滞在することができて、濃厚な、すてきな時間でした。

それでもエクアドルに帰ってきたときは、日本ではないけど、「帰ってきたぞ~」という不思議な感覚。さらに任地に戻って、久しぶりにステイ先の家族や街の知り合いに会って、やっと落ち着けた・・・というかんじでした。

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ラ・パスにあった日本食屋さん、その名も「けんちゃん食堂」。ラ・パスのこのお店は2号店で、本店はサンタクルスにあるらしい。こういうのも日系社会がある影響でしょうか。かなり日本が身近でした。どこに行っても「japones(日本人)」「japón(日本)」に対してもかなり身近なかんじの接し方だった気がする。エクアドルではこういう日本を感じられる日本食をやさしい値段で食べられるところはほぼないはず。日本食に飢えていた私達エクアドル隊員はまさかの2日連続で夜ごはんをここ「けんちゃん食堂」で食べました。これもかなりリフレッシュできた一要素。

ボリビアの通貨は「ボリビア―ノ」。7ボリビア―ノが1ドル。物価は全体的にエクアドルよりも安い。ということで日本よりも全然安い。写真は10ボリビア―ノ紙幣。少し顔がこわいです。

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 ウユニ塩湖の写真はまだまだきれいな写真がたくさんあるので、またちょくちょく載せられたら載せます。

初授業

活動のことをやっと少し書ける回がきました。

今週4月4日にはじめて学校で授業をさせてもらう機会を得て、今週と来週は学校で同僚と活動しています。市の教育委員会のようなところに申請を出してから、3ヵ月ほど待ち、やっと。長かった~。

本当は同じ学校、同じこどもたちに何回もいろいろな内容で継続的に行うことが一番必要で、理想的なのですが、配属先や今回仲介してもらった教育委員会ができることの中では現状それは不可能とのことなのでそれぞれの学校に1回1回の単発で行うことに。街の中心にある小中学校いくつかを1日ずつまわるというかんじ。継続的に行ける学校の模索をこのあとは個人的に行っていかないといけないと考えていますが、今後どうなるかはまだわかりません。けど学校での活動はなんらかの形で続けていかなくてはいけません。

それでも今回学校の授業時間を使って、こどもたちと接することができたのはすごく貴重な経験でした。

今週回ったのは、3校。

「General Rumiñahui(ヘネラル ルミニャウイ)」

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踊り・文化×体育のような時間?先生をしているのは市役所に出入りする音楽家のような人。

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次が「JuanXXIII(フアン23)」

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3つ目が「Paulina Solís(パウリナ ソリス)」f:id:reikomiyahara:20180407045719j:plain

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学校名はキリスト教の重要人物の名前だったり、スペインがやってくる前のエクアドルにいたインディヘナの有名な歴史上の人物名だったりするようです。

エクアドルのこどもたちは本当に素直で無邪気。笑いかけるとみんな笑い返してくれます。知っている人、知らない人関係なく、通りすがりにあいさつをするという習慣は本当にすごい、素敵だなぁと思います。なのでこどもたちはみんな集会所に入ってくるときに一言あいさつして入って来たり、近くに来たらまたさらにフランクに「やぁ。」って微笑んでくれたりもします。この前私を訪ねてくれた事務所の担当調整員の方も、そのタクシーの運転手さんも「知らない私達にもこどもたちが道であいさつをしてくれるのには感動したよ。」と私に言ってくれました。

授業開始初日。朝、6時半頃、まだ寝てると、窓の外から私を呼ぶ声がして、驚いて目を覚まし、外に出るとカウンターパートのマヌエル。これから別の仕事で少し遠くの地域に行かないといけなくなったからと、今日は一緒に学校には同行できないかも…、代わりに同僚のエドウィンが行くからという内容と、私にプロジェクター用のパソコンを託すために来てくれました。

結局その別の用事は流れた(こういうことはほんとに多い)とかで、学校でのプロジェクター設置などは手伝ってくれましたが、そのまま最終処分場へ行ってしまったので、授業は同僚のエドウィンと2人で行いました。はじめは日本はどこにあるかとか、日本語の挨拶とか日本の季節、お寿司のことなども紹介。もちろんそのあとに環境やリサイクルの話を少し。途中でバトンタッチして、エドウィンが分別のことをさらに詳しく熱弁という流れ。特に小さなこどもたちへの彼の話し方はとてもわかりやすいので彼の喋り方も真似したい。

校庭を歩くと、挨拶してくれたり、さっきの続き!みたいなかんじで、「これは日本語で何て言うの?」とか話に来てくれたりもしました。たぶん前に学校を案内してもらったときに日本語のことを話した子たちか、ある子が「中国人がいる!」と言うと、他の子が「違うよ、日本人だって!」と言ってくれている声が聞こえてきたりもしました。もう中国人と言われまくることに慣れたので、私を日本人と判別してくれるのは素直にとってもうれしいです。

活動はまだまだ始まり。でも早いもので、配属されて8ヵ月が経とうとしています。もっともっといろいろな視点からの活動を模索していかないといけないです。残り1年4ヵ月。スペイン語もがんばらなくては。

そして、3月末の1週間は任国外旅行に行っていました。年間に数日、隊員は任国外旅行という日数にあてて、お休みをもらうことができます。はじめての任国外旅行先はボリビア。もちろんエクアドルにいるので、移動時間もお金も日本から行くより格段に少なくて済む。この機会に行っておかないと!と同期隊員何人かで計画し、エクアドルエクアドル着のはじめての国外旅行。そして訓練所が一緒だったボリビアの同期隊員にも約10ヵ月ぶりくらいに会うこともできました。

エクアドルボリビア間は直行便がないので、行きはキトからの便でペルーのリマ&クスコ経由、帰りはコロンビアのボゴタ経由でグアヤキルに到着する便で帰ってきました。旅行中は良い意味でスペイン語の復習のつもりでだいたいこれまで使った言い回しで乗り越えられたけど、やはり任地に帰ってくると途端に「まわりの人たちの会話わからん。」ってなります。スペイン語もまたがんばろうと思えて、リフレッシュできたし、やっぱりなんだかんだ任地を離れると、任地の雰囲気が恋しくなるものです。

土日を入れて9日間の旅行は内容がとても濃厚で、書きたいことがたくさんあるので、また次回以降に旅行の様子は詳しく書きます。

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ボリビアのお土産屋さんにいた人形。うしろにはお金がたくさん飾ってあります。日本円もありました。

こどもたち

前回は少しマイナスな内容になってしまいましたが、部署の人も、他の部署の人も、ステイ先の家族などなど、気にかけてくれる人や頼れる人がいるので、ごはんもモリモリ食べてるし、私は元気です。

 

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ステイ先の家の畑に成っているパパイヤ。まだ熟す前で全部緑。
今日はエクアドルの日常の風景について。

前にも少しだけ触れたこともあったかもしれないのですが、見ているとエクアドルの子どもたちはほんとによく家のお手伝いをしています。

首都などの大きくて、ある程度発達した都市化している街の中心などはわかりませんが、基本的に一つの大きい家族がまとまって住んでいることが多いです。家の周り(となりとか)に兄弟家族、親子、おじさんおばさん、いとこなどなどなんらかのつながりを持った人たちが近くに住んでいます。お手伝いの内容は、まずは家の中のこと。お母さんが料理をしていて、「あれが足りない」とか、夕ごはんに「あれを買ってこよう」となると、お母さんが行くかと思いきや、近くにいるこども(自分のこどもや孫、甥、姪など)に「〇〇を何リブラ買ってきて、早く早く!」とお金をチャリンと渡してお願いします。まぁお願いというよりはまぁまぁ強めの命令です。(ちなみにリブラというのは重さの単位で、エクアドルでとても一般的な単位。グラムはほぼ使いません。1リブラ=約0.46グラムらしいので、これまでグラムしか使っていなかった私は料理するときや買い物するときはがんばって換算して材料を買ったり測ったりしています。)そしてその命令に素直に応じてこどもたちはおつかいをします。まぁこれは家のお手伝いなので、日本でもあるかなとも思いますが、例えば、家がなんらかの商店をやっているとすると、よくこどもだけがお店番をしていたり、お店の片付けを手伝っていたり。この前、必要な書類を印刷しようと、印刷屋さんに行ったら、こどもがふつうに1人だけでお店番をしていて、書類を印刷してくれました。「いくら?」って聞いたら、「ちょっと聞いてくる」と裏に回り、きっと大人に聞いたであろう金額を教えてくれて会計までしてくれました。日本でいう小学5年生くらいの子かな~。あとはまぁ兄弟が多いので、上の子が大きくても、下の子がまだまだ小さくて、お母さんが手が離せないから、代わりに手伝える子が何かをするという自然な流れもあると思います。親は別のところで仕事をしているのか、こどもが小さなこどもの面倒を見ながら家のこと、お店のことをしている様子を見ることもあります。

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洗濯物を干して、ふととなりの家を見ると、こどもが自分の家のお店の荷物をがんばって運んでいました。

そして学校のことも少し。エクアドルの学校は午前中だけです。朝8時くらいからお昼過ぎくらいまで。給食の時間も、掃除の時間もありません。そう思うと、給食や掃除、科目以外のすべてのこともすべて教育や躾につながっている日本の学校教育はそれはそれでやはりすごいんだな~と赴任して真っ先に感じていました。ちなみにエクアドルの小学校に派遣されている同期隊員の話によると学校では休憩の取り方も日本とまったく違うらしく、日本は1時間ごとに少しずつ休憩を取り、少しでも集中力が高められたり、こどもが疲れないようにと時間割が組まれていますが、ここでは半日の中で30分くらいの1回だけであとはぶっ通しみたいな感じらしいです。まぁ中には授業中や休み時間の区別もあまりなかったりするような授業もあるらしいけど。なのでエクアドルでは合計すると圧倒的に学校にいる時間が少なく、家にいる時間が多いです。だから良いとか悪いとかいう話ではなく、家で過ごす時間が長い分、家の中での教えや躾がさらに重視されているような気がします。あくまでも学校でできるのは「勉強」だけ。それ以外の学びはすべて家の中にゆだねられています。兄弟、家族が多いから、その分小さい子は親だけじゃなくて、おばあちゃんおじいちゃん、おじさんやおばさん、兄弟、いとこなどいろいろな人に育てられている(面倒を見てもらっている?)感じもするし、それもそれでたのしくてすてきなことです。この前の「女性の日」の市役所のイベントで行われた市長のお話にもありました。「こどもたちは学校で勉強は学べるけど、他のことは家庭の中で学びます」みたいなことを言っていたはず。これを聞いて、改めて、これがこの国の教育の考え方のひとつなんだな~と思いました。もちろんこれにどうとか言うつもりは私は一切なくて、これはこれで1つの国の文化なんだな~と思って聞いていました。日本に比べたら基本的な人遣いが荒いので、単に働き手の一つとして見て、頼んでいるだけ…というかんじなのかもしれませんが、家のことを率先して、また家族の言うことを聞いて手伝うという姿勢が日本よりもとても強いと思います。そしてそれに素直に応じるこどもたちもえらいな~と、私も日本でもっと家のお手伝いをしなきゃいけなかったな~と思いながら、いつも見て過ごしています。

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任地変更?

前に職場ですごく嫌なことがあったと書いたことがあります。そのときは内容は記しませんでしたが、今回はそのときのことと、これまでのことも含めて一応書こうかなと思ったので、書きます。

すごく嫌なこと…今年に入って、配属先での人間関係が良くなく、実は先月までは任地変更する可能性も含めて事務所と話していました。人間関係というのは、配属先の部署にいる女性秘書との関係性…この一点につきます。カウンターパートのスペイン語が早すぎてコミュニケーション取るのは少し難しいですが、それ以外は特に問題ありません。ほんとに悩みの種は彼女との関係性だけ。

先月一度調整員にも来てもらい、面談したりとか、少しバタバタしていました。

 

もともと性格がきつい人だな~と思ってはいたものの、前まではふつうに接してもらっていました。彼女は自分の思い通りにならないと、理不尽に怒っていたし、その程度が激しかったので、彼女の怒りの矛先が私に回ってこないといいなと感じていた矢先に、ちょっとした事件が起きてしまい、彼女の怒りを買ってしまいました。

「あぁ、やってしまった~。」と思いつつ、私の中では不可避だったし、この事態になってしまったことはもうしょうがないです。私が前にした部署の仕事のお手伝いでひとつ間違いをしてしまって、ため息をつきながら、いや~な雰囲気で、それを指摘されたので、私は素直に謝りました。何回も。しかも手伝ったのは、私がどうしてもやりたいと言ったことではなく、部署に誰もいないときにお客さんが来て、どうしてもその時にしなければいけなかったことでした。

この一件の前から感じ悪い対応が始まっていたので、きっとそれまでも市役所の規定とは別で行動する私のことが気に入らなかったのか、私も正直はっきりとした原因はわからないけど、私の何かが彼女の中でだんだん気に入らなくなっていて、ちょうどこのタイミングをいいことになんだかよくわからないけど怒りを最大級にぶつけられました。彼女がキレて最終的に大声で私に言い放ったこと。

 

「あなたはエクアドル人じゃない!あなたは日本人!だからあなたはここではもう何もできない!」

そしてとなりにいたカウンターパートに向かって、

「彼女はもうここでは機能しないわ。」と。

 

それを言われたとき部署にはカウンターパート、彼女、私の3人だけ。これを聞いていたカウンターパートの顔も少し曇っていた気がしますが、私はもうスペイン語で返す言葉を考える余裕も力もなく、言わせるだけ言わせておこうとそのままにするしかできませんでした。

 

でも、彼女が言ったこと、もちろん事実です。私はエクアドル人ではなくて日本人です。まだまだスペイン語が不自由なのでみんなと同じように動くことは不可能です。言われなくても私だってそんな事実はわかってます。エクアドル人と同じように働けると思ってここに来た訳でもない。でも改めて人から言われると、「何もできないんだから、違う国の外国人がこっちのコミュニティに入ってこないで」と言われている気がして、なんだか存在自体を否定する言葉だなと思いました。いつ思い出しても胸の奥が痛くなるし、何より腹立たしい。

 

そこまで私を怒っておいて、まだ何が気に入らないのか知りませんが、その日から彼女ももう完全に私に対しての態度がわかりやすく冷たくて感じ悪い…誰が見てもわかるくらい。時々日本人をバカにするようなことを言われたりもするし、私が何か変なことをしでかさないか確認を他の人にしたりとか、すべてが感じ悪い。ごみ収集関係や他の部署の同僚が私の部署にいるときに、すべては理解できなくても、私に対するなんか良くないことを彼女が話してるんだろうなということもなんとなくわかります。先週も、「そこの中国人が…」みたいな表現をされたりとか、いちいち突っかかってくるというか。道を歩いていて何も私のことを知らない人は私に向かって「Hola, china」(やぁ、そこの中国人)と言います。基本的に中国と日本や韓国は同じ国だと思っている人がほとんどなので、初対面なら「またか…」と流して「Hola」と笑顔で返します。何回かすれちがっていてある程度顔見知りになったら、「私は日本人だよ」と返すようにしています。でも彼女はこれまでもいたJICAボランティアのことも知っているし、私は半年前からいて、そして何より私たち日本人が中国人と呼ばれることを嫌がることすらも知っています。ただ混同してしまっているのとは訳が違う。だからわざと言ってるんです。ただの嫌がらせか周りのエクアドル人を笑わせるための冗談のつもりかよくわからないけど。

事務所にこれまでのことや言われたこととかを相談したら、一度は任地変更も検討することになりましたが、「任地変更か~。」と考えだしたら、なんだか私の中では納得いかなくて、1人との関係が問題でここを後にするというのはなんか違うなと思ったし、これまでここで過ごしてきて築いたものがゼロになるというのも悔しいので、このまま任地は変えずに過ごしていきます。この選択がこの先どうなるかはわからないけど。

ステイ先の家族にも相談できるし、彼女のことを知っている人はみんな「気にしなくていいよ」と言ってくれているので、彼女に対しては毎日の挨拶は私から行っていますが、それ以外は最低限の関わりにとどめています。私が最低限の関わりにとどめても、彼女が私の行動にいちいち文句をつけてくるので避けようがないときもあります。

 

今月から部署にお手伝いに来ているおじさまがいて、彼は前まで市役所の他の部署で長い間働いていたようで、市役所内にも知り合いが多いです。とても気さくなおじさま。私から何も話さなくても、部署の雰囲気と彼女の私への対応と私の様子を見て、私に「気にするな。君はたんたんと自分のことをしなさい。」と私に言ってくれ、それ以降も気にかけてくれます。もう1人の同僚も同様に私に言ってくれます。他の部署の人も、私に友好的に接してくれるので、そのおじさまも言うように、たんたんと過ごしていくしかありません。

そのおじさま。

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彼女のおかげで、流す、気にしないということが日本にいたときよりもできるようになったと思います。嫌なことを言われたら、その都度家族や他の人を頼って話を聞いてもらったり、この環境とうまく付き合っていけるようにします。これもこの任地だからこその経験ということにしておきます。

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女性の日

3月8日は国際女性デー。ここエクアドルでも女性の日「el día de la mujer」としてお祝いされていました。

日本ではなじみがなかったので、私自身恥ずかしながら国際女性デーの存在を知らなかったので、貴重な、新しい経験でした。

お祝いの言葉は「Felíz día‼」(フェリス ディア…日本で言う「おめでとう」)です。女性から言われたら、「Felíz día‼」と返して、ハグしたりして、一緒にお祝いをし合います。男性から言ってもらったら、「Gracias」(ありがとう)と返します。

日ごろの感謝を女性に伝える日という趣旨で、お祝いしてもらえます。

午前中からお昼過ぎまで、同僚の仕事に同行していて、出かけていたので直接は会えなかったのですが、午後戻ると、机の上にお花とチョコレートが。前にうちの部署に大学生インターンとして来ていたジョニーが里帰りしているらしく、置いていってくれたとのこと。きのう歩いていたら、偶然彼に遭遇したので、改めてお礼を言うことができました。

 

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市役所内でも夕方に女性の日のイベントが実施されました。他の部署のイベント主催者が私にも声をかけてくれたので、参加させてもらいました。ここでもお花をもらい、市長などの簡単なお話のあと、コーラとケーキが振る舞われました。

 せっせと用意をする男性陣。ちなみに一番左は前のカウンターパート・オルランド。部署を離れても、私のことを気にかけてくれます。

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ステイ先の家族でも男性陣から、「Felíz día‼」と言ってもらったり、女性陣同士で言葉をかけあったり。

そして夜には、他の部署の女性が誘ってくれて、discoteca(ディスコテカ)に。日本でちょっと飲みに行こうとなると、お酒を飲めるレストランや居酒屋でごはんやお酒を楽しみながら、話して盛り上がるというのが一般的かなと思いますが、ここではとにかく踊り・踊り・踊り!ディスコテカに行こうとなります。ステイ先の家族が誰もいないメンバーでディスコテカに行くのは初めてでしたが、みんな親切でたのしかったです。そして行ったら、家族の長女が夫婦で来ていたり、次女の旦那さんなども別グループで来ていたりと、偶然会ったりもしました。

 

キリスト教という文化、歴史的にも欧米の習慣が入っているということもあるとは思いますが、女性の存在の大きさを感じます。あとは世界に共通して女性はいろいろな意味で強いなぁと。特に南米の血が流れている女性たちを見ていると、本当にそれを感じます。

ちょっと話は逸れるけど、「mandarina」(マンダリーナ)という言葉があります。意味は一般的には「オレンジ、ミカン類のフルーツ」を指します。エクアドルでもとても一般的な果物。でももう一つの意味があって、「家の中で奥さんや女性の尻に敷かれている男性」という意味もあります。辞書には載っていないけど、任地に来て一番最初に教えてもらったほどここではよく使われています。

いいタイミングで使うと、かなりウケます。あとは誰かが「こいつはmandarinaだからな~」と言っているのを、「あなたはmandarinaなのね!」と繰り返すだけでも、みんな笑うくらい、親しまれている言葉。他の中南米の国で使うかはわからないので、エクアドルに来る機会があったらぜひ使ってみてください。きっとかなりの確率で笑いを取ることができるはず。

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市役所の女性陣で記念撮影。集会の最後に撮影しました。最前列にいる1人の男性が、Bladimir Armijos Vivanco 現市長。

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タイトルのarañaはスペイン語で「蜘蛛」という意味。

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これは蜘蛛のおもちゃ。大きいし、手触りは少しベタベタするかんじでおもちゃの人形とはいえ、けっこう気持ち悪い。1週間前にあったお祭りの露店にあって、ステイ先の末娘の子ども、4歳の男の子がこれにリアルに怖がってるのをいいことに面白がって、ステイ先のお母さんが購入。休日にゆっくり起きて、完璧に気を抜いて朝ごはんを食べていたら、いきなりうしろからこれが飛んできて、びっくり。飛ばしてきた犯人、ステイ先の息子に大笑いされる。こういうかんじで、ここ1週間、ステイ先ではこれを使っては大人たちもみんなで驚かせてあそんでいる、ステイ先にはそんな一幕もあります。

 

これまではエクアドルに来てからのことだけを書いてきましたが、今回は私が協力隊に参加するまでの経緯も記しておこうかと思ったので書きます。

 

私は協力隊に参加する前は会社員をしていました。大学卒業後、一般企業に就職し、忙しいながらもたのしくOL生活を送っていました。最初のきっかけとなったのは、あるつながりで知り合いだった同じ会社の4つ上の先輩が協力隊に参加するということで退職されたこと。出発前に部屋を整理していたら、自分では一切覚えていなかったけど、大学入学時に購買部に置いてあった協力隊のパンフレットが出てきたので、きっと学生時代から知らず知らずのうちに関心を抱いていたんだろうなと思いますが、海外経験もないし、外国語も特別できる訳ではないし、何か資格や専門技術がある訳ではないしなぁ、と勝手にあきらめていました。そもそもこのときはまだまだ2年間も途上国に住むということもあまりピンときていなかったのかもしれません。でもその退職された会社の先輩の話を聞いたとき、もしかしたら私も参加できる可能性があるのかも…なんて思いを少しだけ抱いたことは覚えています。ただ、そのとき私は社会人1年目を終え、やっと2年目になるとき。職場の仕事もまだまだ理解できてないし…と、退職するという選択肢は一切なく、業務を習得することに専念していました。そこから2年目、3年目…とあっという間に月日が経ち、気づいたら社会人4年目。そしてその夏にそれまでずっと体調を崩し治療していた祖母が亡くなりました。亡くなる前、日に日に弱っていく祖母を見ていて、これまでこんなに近くで人間が弱くなっていくというか、死に近づいていくのを見たことがなかったので、このときはじめて「あ、人ってこうやって亡くなっていくんだなぁ…」とこの歳になってやっと経験しました。私の中ではそんな出来事があって、いずれ私もいつか亡くなる訳で、そのときに「あれをやっておけばよかったなぁ…」とか「あの選択をしていたらどうなっていたかなぁ」とかベッドの上で後悔したくないなと思うようになって、そのときに「きっとこのまま過ごし続けたら、協力隊に参加したかったと後悔するんだろうなぁ…」という思いが少しずつ強くなっていきました。幸い会社では人間関係に恵まれて、感謝すべき環境なのはわかっていたのですが、私の中では今のこのタイミングじゃないと参加はもうできないなということも思って、さんざん悩んだ結果、「応募するだけ応募しよう。」と決めました。もちろん受かるかもわからないけど、「どうせ応募するなら最大限できるだけのことはして、それで落ちたらあきらめられるな」と。このとき社会人4年目の秋。協力隊の応募は年に2回、春と秋です。そのとき私にとって次の応募のチャンスは社会人5年目・2016年の春。落ちても何回もだらだら受け続けるのも嫌だったので、2016年の春と秋だけ受けようと決め、少しずつ準備することに。TOEICを受け直したり、健康診断に向けて食生活を気を付けたり、応募書類を少しずつ書いたり。協力隊の選考は1次が書類、2次が面接の2回で合否が決まります。書類選考は前述のとおり、TOEICのスコア(高校卒業程度のスコアで応募可能で、点数が高いから優遇されるという訳ではなく、JICAが提示する最低限のラインをクリアしていれば大丈夫なようです、もちろん応募する活動内容や国に応じてですが)、健康診断表、自己PR書類、履歴書などでした。書類の準備はけっこうなボリュームがあって、健康診断にはお金もかかるし、ちょっと応募してみようかな~とかで応募できる量ではありませんでしたが、なんとか期日までに完成させて、投函。なんとなく、もうこの時点でできるだけのことはしたし、書きたいことも書いたので、これでダメだったら秋受けなくてもいいかもな~なんてことも考えていました。少し忘れたころに結果が届き、内容は2次選考の案内でした。そしてたしかこのときに会社の上司にも話したっけ。もちろん受かった訳ではないですが、可能性として合格した場合、会社を退職しなければいけないですと伝えました。

2次選考の面接は平日。会社休めなかったらしょうがないなと思いつつ、でも幸い問題なくお休みをもらうことができ、面接当日。内容は「人物面接」と「技術面接」と呼ばれる2回の面接を同日に行います。人物のほうは基本的なこれまでやってきたこととか志望動機とか。「技術」のほうは応募した職種に適合しているかどうか。面接は少し難しいなと感じる場面もあったけど、それでも最終的には良い雰囲気で話したいこと、伝えておきたいことは全部伝えられたから、このときもこれで落ちたらしょうがない!と思っていました。学生時代の就活で嫌になるほど面接を経験しておいてよかったとこの時ばかりは思いました。

そんなこんなで無事受験が終わり、ほんとに忘れたころに結果が届き、届いた書類は開ける前からなんだか重たそうな一式。もしやこれは…と、開けると合格書類でした。あまり信じられなかったので、何度も見返した覚えがあります。2016年の夏に結果を受け取り、2017年4月から訓練に参加してくださいという通知。家族とは少しモメましたが、その時はほぼ押し切って参加を決め、訓練が始まる直前の3月末に5年間お世話になった会社を退職しました。

そこからはあっという間で訓練所ではたくさんのおもしろい出会いがあって、3か月間の語学訓練を無事に修了し、自治体への表敬訪問、家族・友人と過ごして、2017年の7月6日に日本を出発し、アメリカ経由の合計24時間のフライトでほぼ日本の裏側、遠い遠いエクアドルにやって来て、今私はここで生活している訳ですが、ここまで来るのにたくさんの人の理解と協力があってここに居れることを忘れないようにしようと思います。

 

駒ヶ根訓練所近くの桜。

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 訓練たのしかったなぁ。みんな元気かな。

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生活するっていうのは旅行するのとは訳が違くて、価値観も習慣もすべてが違う人間がひとりそこのコミュニティに入るということはすごく大変で、入り込めば入り込むほど、はるかに私の想像を超えて、泥臭いこと・嫌なこと・びっくりすること・辛いこと・いろんな人の思惑が絡み合ったり、いろいろな見方をされて、冷静に自分の置かれている環境を見ると、先が見えない暗闇にいるようなかんじもします。ふだんは感じないようにしていますが。任地にやって来て半年、まだまだ残りがあるので、一度ここで、参加するまでのことを思い出したりしながら、疲れないようにゆっくり過ごしていきたいなと思う今日この頃です。

お祭りモード?

カルナバルが終わり、街の様子も元に戻るかと思いきや、カルナバル後の16日から昨日26日まで街のお祭りfiesta(フィエスタ)が続いていました。夜にマラソン大会やスポーツ大会があったり、エクアドル人が大好きなミスコン、平日も含めて、何らかのプログラムが日々用意されていました。

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ラソン大会の様子。


なんでかと言うと、2月26日が「cantónヤンササの日」。それで26日を集大成として、その日に向けてかなり街は盛り上がっていました。26日の昼間には、それぞれ、学校や職場団体ごとに行われるパレードがあったり。私もお願いして、市役所チームの最後尾にこっそり参加させてもらって、車関係を扱う部署のおじさんたちと歩かせてもらいました。

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パレードの大トリ。


エクアドルの地方行政区分は、国→県→州→市→barrio(バリオ)という風に徐々に細分化されていきます。州のことをcantón(カントン)と呼び、cantónヤンササはヤンササ市をはじめ、いくつかの村のような田舎地域と呼ばれる教区分も持って、一つの州を形成しています。なので、「cantónヤンササの日」は、ヤンササが州化されて、市やいくつかのコミュニティが1つにまとまった記念日というかんじでしょうか。

ちなみにbarrio(バリオ)というのは市内の区画みたいなかんじです。任地や隣町のロハは、日本のような番地はないので、家を1軒1軒で特定することはできません。住所の特定はこのバリオや、道の名前で行っていると思われます。

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 パレード終了後、中央公園には人がたくさん。お昼ごはんの市民向けの炊き出しが出るとかでずっと待っていたんだけど、1時間待ってもなかなか始まらず、最終的にお腹が空きすぎたのであきらめて家に帰りました。

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「YANTZAZA」(ヤンササ)の文字の名前も今回のお祭り期間に完成。エクアドルの多くの都市には、その都市名をかたどったオブジェがあるのですが、任地にはずっとなくて、できるといいなぁと勝手に思っていたら、私が知らなかっただけで、今回のお祭りでお披露目するという計画がすでに前から計画が始まっていたようです。

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こっちは中央公園で夜に開かれたミスコンと野外フェス。

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そして選ばれたミスたち。ミスのことを、エクアドルでは「reina(レイナ)」(意味は「クイーン、女王」)と呼びます。この写真の奥の方で私は偶然会ったごみ収集の同僚たちと集まり、踊りの時間が始まるのを待っていました。

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そして、今回は「グァバ」についても少しだけ。乾季と雨季の任地では今だけが旬の果物らしいです。外見はこんなかんじで細長い。

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で、これを割ると中に白い実がぎっしり。

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この実をひとつひとつ食べるのですが、まぁまぁ大きな種が入っているので、まわりの少しの白い果肉を吸いながら食べて、残った種は出す。グァバの木にはこの細長いものがたくさんぶら下がって成っています。

この前久しぶりにごみ収集車に乗らせてもらっていたら、最終処分場につながる登り坂の脇にたくさんグァバが成っていて、いきなり「採るぞ!食べるぞ!」という流れになりました。彼らはトラックを止めて、トラックの上にヒョイヒョイと登って、木から採ります。私も彼らが採ってくれたやつを1本いただきました。前にも何回かステイ先や知り合いに連れて行ってもらった畑で食べたことはあったものの、やはり小さいころから食べ慣れているのか、男性ということもあり、ガツガツ食べ進めるので、私がやっと1本食べ終わるまでに彼らはそれぞれ5本くらい食べ終わっていました。ごみ収集車から種と皮を周りに広がる森に捨てるのですが、まぁ生ごみなので、果物の皮と種だから何か月後かには土に返るのでいっかと、私も仕方なく種は外に車から捨てました。

やっと1本食べ終えたところで、ちょうど収集場所のバスターミナルに着いたので、私はごみ収集車の中にちゃんと皮を捨てようかなと車を降りてうしろに回ったら、それはそれは汚いぬかるみに足を突っ込んでしまい、ため息。グァバを採るところから、車に登って、ひょいひょい採って、がつがつ食べて、さらりと捨ててというこの一連の流れ、ポイ捨てを含んでいるものの、さっそうとやってのける現地の彼らとはスピードが違いすぎて一人笑う。しかも挙句の果てには、ちゃんと捨てようとしたにも関わらず、ぬかるみに足を突っ込むというまぬけっぷりを発揮しながらも、まぁみんなと一緒にグァバをおいしく食べられたのでよかったです。別の日にはパパイヤを採って、途中の休憩ポイントで一休み。

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自然がたくさん。

 

そしてそして、先週末の土日にはロハのシニア隊員の3人がなんと私の任地に遊びに来てくれました。

この土日もお祭りが開催されていたので、それを少し見学しつつ、滝を見に行ったり、任地に流れるサモラ川のつり橋を歩いて渡ったり、またロハとは違った景色を見てもらえてよかったです。ステイ先の家族やお祭り会場で会った同僚や知り合いにも少し紹介できました。最近雨が多くて涼しい日が多い任地も、この土日はカンカン照りでいいお天気。オリエンテの気候を存分に感じてもらえました。

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お祭りのプログラムのひとつ、牛の品評会。最後までは見れませんでしたが、コンテストのようなかんじで、一番美しい牛が選ばれていた模様。

とまぁこんなかんじで、カルナバルに始まった街のお祭りモードが無事きのうをもって終了しました。

今日27日は振替休日で市役所はお休み。ゆっくーり過ごしました。そして2月も明日で終わり、3月がやってきます。